当時8歳、西浦上国民学校2年生。夏休みのため、三川町の自宅にいた。庭でヒヨコに餌をあげようとした瞬間、辺りが一瞬光った気がした。
「伏せろ」-。誰かの声でとっさにしゃがんだ。音や爆風は記憶にない。家の周りは木が生い茂っていたので、偶然、陰に入っていたのかもしれない。
気付けば「熱い、熱い!」と女性の叫び声が聞こえていた。家の目の前の川を見ると、先ほどまで近くの田んぼで草取りをしていた近所のおばちゃん3人が洋服を着たまま川で水をかぶっていた。何が何だか分からず、走って家に戻った。
風邪で寝ていた兄が「何事な。台風な」と起きてきた。家の中を見ると、たんすから棚から全ての物が倒れていた。数カ月前に戦死したもう1人の兄の祭壇も、めちゃくちゃになっていた。
近くの畑から両親が走って帰ってきた。家にいた姉も含め、全員無事だった。家族5人で、戦死した兄の写真を抱え、200メートル先にある防空壕(ごう)に逃げた。
逃げる途中、近所の家が何軒かゴウゴウと音を立てて燃えだした。その中にはいとこの家もあった。怖さで足がすくみ、動けなくなった。誰かに手をひかれ、何とか壕の中に入れられた。
壕には近所の人も集まっていた。その場には約20人がいたが、誰も何も言わず、シンとしていた。昼間なのに外は薄暗く、雨も降っていた気がする。もともと怖がりな性格の私。いつもは「大丈夫」と声を掛けてくれる母も何も言ってくれず、ただ1人で震えた。
夕方ごろだろうか、大橋町に行っていたいとこのお兄ちゃんが帰ってきた。口元から血が流れていた。「浦上の方がひどい」「何もかも燃えていた」「死人がたくさんいた」と、周りの大人に報告していた。
夜、空は真っ赤に照らされていた。一帯が盆地なので、周りの町の様子は見えず音も聞こえなかった。赤々とした空が怖くて眠れなかった。
私たち子どもは壕生活を続けた。火災の被害を受けなかった自宅が目の前にあるのに、外に出るのが怖くて帰れなかった。ご飯は大人が持ってきてくれた。実家が農家だったため食べ物には困らなかった。