戸田シノブ
戸田シノブ(86)
戸田シノブさん(86) 爆心地から6キロの長崎市本河内町4丁目(当時)で被爆 =西海市西彼町上岳郷=

私の被爆ノート

トンネルにけが人 続々

2015年5月21日 掲載
戸田シノブ
戸田シノブ(86) 戸田シノブさん(86) 爆心地から6キロの長崎市本河内町4丁目(当時)で被爆 =西海市西彼町上岳郷=

当時、16歳で玉木高等実践女学校生。あの日は動員学徒として日見トンネル内で、特攻用と言われていた「マルヨン艇」の部品作りをしていた。作業場には学徒動員の5、6人と、一般作業員の合わせて数十人がいたと思う。

突然、作業場の裸電球の明かりが消え、真っ暗になった。周りの作業員と一緒に慌てて外に出たが、何が起こったのか全く把握できなかった。空から白い落下傘のようなものが風に吹かれ、流れていくのが見えたことは覚えている。

トンネル内の仕事場は真っ暗なため作業ができず、他の作業員と待機していた。道を通り掛かる人に何があったのか聞いたが、「爆弾が落ちたようだがよく分からない」という返事。2、3時間ぐらいたつと、長崎市中心部の方から髪がちぢれたり、ひどくやけどを負ったりして性別さえ分からない状態の人々がぞろぞろとトンネルに向かって歩いてくるのを見た。ただ事ではないと思った。

その後、帰宅の許可が出て、片淵にあった自宅へ向かった。必死だったため、周りがどんな状況だったかは覚えていない。帰ると家のガラスが割れ、部屋もめちゃくちゃ。両親とお手伝いさんとの4人暮らしだったが、幸い、全員無事だった。

数日後、学校から連絡を受け、茂里町に向かった。そこは一面が焼け野原で何もない状態だった。たくさんの遺体が運び込まれ、並べて燃やされていた。とても言葉で言い尽くせない無残な光景で、まさに地獄絵図だった。

それでも何が起こったのか分からないまま大人の指示に従い、火葬した後の遺体の骨をリンゴの木箱に入れる作業をした。真夏の焼けるような場所での作業はとても暑かった。つらかった。この作業は2日間続いた。

しばらくして原爆が投下されたことを知った。

<私の願い>

被爆後、日光に照らされると体に斑点が出てくるようになった。原因は分からないが原爆の後遺症ではないかと思っている。もう二度とあの残酷な姿は見たくないし、若い人たちにも同じことを味わってほしくない。だから戦争という愚かな行為が絶対に起こらないことを心から願っている。

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