落合さんの家が燃え始めたのに気付き、防空壕(ごう)の外に出ると、「助けて、助けて」と、奥さんの金切り声が聞こえた。はい出した2年生に「動ける者は落合さんを救い出せ」と怒鳴った。必死になって、割れた瓦を手ではねのけ、屋根板や角材を肩で持ち上げようとしても、びくとも動かなかった。
そのうち角材や板切れが自然発火するように炎を噴き始めた。周りの樹木も家もやぶも燃えだし、火に囲まれた。落合さんの悲鳴に耳にふたをするようにして、動ける者を連れて逃げた。「落合さん、堪忍してください」と泣きながら、火炎の重囲を突破した。
励まし合ったり、怒鳴って元気を出させながら山を逃げた。1人倒れ、また倒れる。何かにつまずいて転ぶと、それっきり動かない者もいた。椎葉君と私は秋のように変色した金比羅山の中腹から頂上へと皆を誘導し、広い丘陵地帯にようやくたどり着いた。
椎葉君が「自分も、もう駄目のようです」と言ったので、「元気を出せ」と励ましながら辺りを見ると、脱出した仲間の大半が途中でいなくなっていた。諏訪の森にやっとたどり着き、顔を洗うことができたときには、もう夕暮れが迫っていた。さまよう人の群れをかき分けて、臨時救護所になっていると聞いた伊良林国民学校に倒れ込むように入った。それ以来、椎葉君に会うことはなかった。
飽の浦町の寮へ帰路に就き、稲佐橋に向かったが、また火が迫ってきた。逃げ惑う人々とともに、結局山の方に逃げた。西坂の丘で辺りを見回すと、長崎の街は火の海で真っ赤になっていた。やぶで無数の蚊に刺されながら夜を過ごした。
ようやく朝が来た。しかし、朝日に照らされた下界は余燼(よじん)がなおくすぶり続けるまさに地獄の街、がれきの街と化していた。
寮に戻ろうとして、稲佐橋を渡る途中、下を見ると、次から次に赤茶けた死体が川を漂っていた。ふと自分の学校がどうなったかと思い、浜口町の三菱長崎工業青年学校に向きを変えた。浦上駅方面に歩くが見渡す限りの焼け野原。長崎医科大や山王神社を目印に探したが、学校は完全に焼けうせていた。兵器生産のために置かれていた機械が茶褐色の残骸になり、銃器庫の剣も鉄砲もぐにゃぐにゃに折り重なっていた。
<私の願い>
軍歌など戦争を賛美するような歌を今聞くと、嫌な気分になる。平和ほど尊いものはない。若い人には戦争の惨禍を二度と繰り返さないようにしてほしい。後の世代まで犠牲者の霊が弔われ、平和が恒久的に継承されることを望む。