当時14歳。自宅隣のもち米を作っていた農地で、朝から草取りをしていた。稲の間にもぐっていたところ、飛行機の音がして長崎医科大付属病院(当時)から当直明けで帰宅したばかりの父が「飛行機が来たぞ」と叫んだ。間もなく目がくらむ光で照らされ、数秒後の爆風で10メートルほど離れた自宅の軒先まで飛ばされた。何が何だか状況が分からない。目も頭も耳もガンガンして痛かったが、けがはなかった。
わが家は崩れて住めなくなり、裏手にある防空壕(ごう)で暮らすことに。夜になっても、町を燃やす炎が空を赤く染めていた。三菱兵器製作所大橋工場(現・長崎大文教キャンパス)へ行っていた兄が帰ってこないため心配したが、翌日無事に戻ってきた。
「日本から即刻退避せよ」と書かれたビラが空から雪のように舞い降りてきたのを見かけたように記憶している。父は「どんな菌が付いているか分からないから触るな」と言った。
父は病院の様子を見るため出掛けたが、すぐ引き返してきた。「食べ物をくださいと言う人がずらりといて恐ろしかった」と話した。
その頃、父の知り合いの永井隆博士が救急箱を抱えてやってきた。永井博士は近所のけが人を治療して回った後、わが家で昼ご飯を食べた。「次は1週間後に来る」と聞いたが、二度と来ることはなく後年、床に伏して亡くなったと聞いた。
終戦後は、米軍が上陸してくるので女性や子どもは隠れろという話になり、長与の山の中で1週間ほど暮らした。夜に火を使ったら見つかると言われ、料理は昼にした。
川平町に戻ってから、目や耳の検査のため長崎医科大の移転先、新興善国民学校へ向かうとき、初めて爆心地を歩いた。もう1カ月がたっていたが、焼けた木材が転がっているばかり。歩いている人は少なく、表情は暗かった。
<私の願い>
被爆体験を語る人が少なくなったと聞き、きちんと伝えないといけないと思って初めて話した。 豊かで平和な時代になったが、若い世代にはもっと物を大切にしてほしい。核兵器が二度と使われず、戦争がない国をつくってほしい。世界中のみんなが幸せに暮らせるように祈りたい。