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私の被爆ノート

裏も表も分からぬ死体

2015年4月2日 掲載
堀 信子(78) 堀信子さん(78) 爆心地から2・4キロの長崎市立山町で被爆 =長崎市木鉢町2丁目=

戦争が激しくなる前、結婚間もない長兄村吉が出兵した。家族で盛大に見送り、私は兄の姿が見えなくなるまで日の丸の旗を振った。当時5歳。幼くて戦争のことを理解していなかったが、兄が二度と帰ってこない気がして涙が止まらなかった。

11人きょうだいの末っ子。大家族で仲のよさが自慢だった。被爆当時は4番目の兄まで出兵。結婚を機に県外にいた長姉も除き、両親と私を含む残りのきょうだい6人で暮らしていた。

よく晴れた暑い日だった。当時8歳。勝山国民学校3年だった。立山の自宅で、両親は不在。昼ご飯の準備の手伝いをしようとしていた頃、突如、爆風の衝撃とともに勝手口から炎の塊が部屋の中まで入り込んできた。台所にいた私は恐怖で足がすくみ、動けなかった。

「助けて」。爆風で崩れた土壁に下敷きになった兄や姉が叫んだ。幸い大きなけがもなく、みんなでなんとか家の外に出た。家は屋根の一部が爆風にそぎ取られ半壊状態。近所の家も焼けたり倒壊したりして、町全体が破壊されていた。

夕方ごろ、両親と外出していた兄たちとも再会。無事を喜んだ。

近所の墓には、浦上方面で被爆した人々が続々と避難してきた。「なんとか生きてほしい」。母が家で炊いた麦ご飯を振る舞った。

終戦後もしばらくは原爆による惨状を目にした。穴弘法山には、裏も表も分からない赤茶色に焼けた死体がいくつもあった。遺体が家族の元へ帰れたのか、今も気になっている。

その後、24歳で結婚。2人の子どもに恵まれ、4人の孫が生まれた。新たな命の誕生に接するたび、感動が込み上げた。

だが5年前、がんを患った。別の腫瘍も見つかり治療を続けている。自分の病気や子や孫に被爆の影響が出ないかなど不安。被爆から70年となる今も、私は原爆と闘い、生きている。

<私の願い>

たった一発の原爆で多くの命が奪われ、70年たった今もたくさんの人が病気と闘い、発病の不安を抱えている。安倍政権は集団的自衛権行使容認を閣議決定するなど、日本を戦争のできる国へ変えている。戦争は絶対に反対。今こそ戦争体験者の声に耳を傾けてほしい。私は洗いざらい語りたい。

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