浦辺 弘子
浦辺 弘子(78)
浦辺弘子さん(78) 爆心地から4・6キロの長崎市大浦出雲町で被爆 =長崎市大崎町=

私の被爆ノート

赤く濃く燃える浦上

2015年3月26日 掲載
浦辺 弘子
浦辺 弘子(78) 浦辺弘子さん(78) 爆心地から4・6キロの長崎市大浦出雲町で被爆 =長崎市大崎町=

物心がついたころから米軍機におびえる日常だった。校庭での朝礼の途中、みんなで教室に駆け込んだこともある。だが、あの日は遊びに夢中だったのか、飛行音は耳に入らなかった。

当時、南大浦国民学校3年生。空襲警報が解除されたので、自宅近くにあった友達の家の2階に女の子が約10人集まり、かるた取りなどを楽しんでいた。

2時間ほど経過。突如、目の前が真っ白になった。間髪を入れず「ドーン」と、ものすごいごう音。そして、大地震が起きたかのように家が大きく揺れた。みんな甲高い悲鳴を上げた。慌てて逃げようとした際、神棚から落ちた何かが頭に当たり、「もう一発落ちたのか」とパニックになった。

長屋の自宅に戻ると、台所の窓ガラスが割れ、全体が浦上の反対方向に傾いていた。母と4歳の弟、生後1カ月の妹がいたが、けがもなくホッとした。

しばらくして、空襲警報代わりのどらの音が鳴った。母は「生まれたばかりの赤ちゃんを連れて山手の防空壕(ごう)に逃げるのは無理。死ぬときは赤ちゃんと一緒」と言って譲らなかった。私は栄養失調で歩けない弟をおんぶし、鍋冠山近くの防空壕まで懸命に駆け上がった。

防空壕は20人ほどでいっぱい。夜になり、外に出ると浦上の方が赤々と燃えていた。夕焼けよりも色濃く、異様だった。恐ろしいその光景は今も忘れられない。

終戦後、長崎要塞(ようさい)司令部に詰めていた父が帰ってきた。

1年が過ぎたころ、母が倒れ右半身不随になった。それから母の看病をしながら弟妹の面倒を見なければならなかった。母が倒れた後に出産した女の子は、生後4日目に洗面器いっぱいの血を吐き、亡くなった。被爆の影響かは分からないが、つらく苦しい日々は戦後も続いた。

<私の願い>

語り部活動を始めることになり、当時の状況を思い出そうと被爆地点に先日行き、近くで暮らすお年寄りに話を聞いた。もっと早く始めていればと思ったが、できるだけ努力するつもり。核兵器廃絶の署名集めもしている。原爆や戦争は生活をむちゃくちゃにし、人類を不幸にするだけと伝えたい。

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