長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

思い出す母の後ろ姿

2015年3月19日 掲載
木口 久(75) 木口久さん(75) 爆心地から2・5キロの長崎市平戸小屋町(現大鳥町)で被爆 =長崎市本尾町=

1944年に父が病死し、名古屋市から祖母がいる長崎市に移った。母ときょうだい5人、平戸小屋町(現大鳥町)の高台に暮らした。

幼いころの記憶はおぼろげだが、あの日の朝のことは鮮明に覚えている。当時5歳。母は浦上まで食料の買い出しへ出掛けるため、慌ただしく身支度をしていた。

母が家を出ようとしたとき、当時1歳の妹が、火がついたようにわんわんと泣きだした。「行かないで」「自分も連れていって」と伝えているかのように。とにかく母にしがみついて離れない。12歳の姉、9歳の兄が必死になだめても聞かない。今思えば、虫の知らせというものだったのか。

やっと引き離し、母を見送った。母は長い下り坂を何度も何度も振り返りながら進み、やがて見えなくなった。それが最後に見た姿だった。顔もろくに覚えていないのに、あの後ろ姿は今も思い出す。子どもたちを残し、無念だったろう。

母の帰宅を待ちながら遊んでいると視界に飛行機が飛び込んできた。その大きさに圧倒され日本の飛行機だと思って、はしゃいだ。しばらくすると突然、ピカーッと稲光のようなものが走り、どーんという大きな音がした。家は大きく揺れ、天井から土砂が崩れ落ちてくる。泣きながら防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。

祖母の家へ向かうと、人が大勢いて騒がしかった。夜、体中が真っ赤に焼けただれた親せきが戸板で運び込まれ、うめき声を上げて苦しんでいた。翌朝はもう亡くなっていた。きょうだいで母を捜し歩いたことはよく覚えていない。

孤児になり、いろいろなところを転々としたが、人情厚い方々のおかげで命をつないでいただき、こうして生きている。それも忘れてはならないと思っている。 あの日、外出する母に泣きじゃくっていた妹は先日、古希を迎えた。

<私の願い>

平和とは子どもたちの笑顔、歓声だと思う。家族や友人、そして自分自身のことを思いやり、明るく、仲良く、ゆっくり生きることが大切。焦って急ぐと、人は邪魔者を消そうとしてしまう。集団的自衛権など、現在の日本の政策には危機感を抱く。世界に平和を訴えるリーダーであってほしい。

ページ上部へ