下川 一
下川 一(82)
下川一さん(82) 爆心地から2・3キロの長崎市大黒町で被爆 =長崎市伊良林3丁目=

私の被爆ノート

町中に死体焼く炎

2015年3月12日 掲載
下川 一
下川 一(82) 下川一さん(82) 爆心地から2・3キロの長崎市大黒町で被爆 =長崎市伊良林3丁目=

「早くできた者は帰っていい」。先生からそう言われ、大橋町に泳ぎに行った友人たちもいた。当時、竹の久保町にあった旧制県立瓊浦中の1年で12歳。8月9日の午前中は英語の試験だった。

学校から大黒町の実家まで徒歩で約30分。家に着くと飛行機の爆音が聞こえた。「友軍機か」と思いながら空を眺めていると、突然、ピカッと光った。慌てて家に飛び込んだ。

しばらくして気がつくと、横に3歳の弟が倒れていた。はだしのまま弟を背負い、夢中で山手の方へ逃げた。一緒に逃げていた人たちは全身に油をかぶったように黒光りしていて体中から拳ぐらいの大きさの水膨れが垂れ下がり、動くたびにぶらんぶらんと揺れていた。

西上町(当時)の本蓮寺にたどり着くと、みんなが驚いた顔で私を見た。頭をけがしていて顔中が血まみれだったらしい。本蓮寺で家族と合流すると、さらに山手に避難して市民グラウンドの防空壕(ごう)で一晩明かした。

実家は全焼していた。数日後、父親が焼け跡で木材やトタンを集め、実家のあった場所にバラックを建てた。

爆心地に近い瓊浦中はほとんど全滅だった。8月中旬、校内の道具を東山手町の活水女学校(当時)に運び出すために瓊浦中に向かった。道には馬の死がい、人の死体が転がり、川も死体だらけだったが、気の毒だという感覚はなかった。

8月下旬、衰弱していた一番下の1歳の弟が亡くなり、トタンの上に横たえて焼いた。そのころは夜になると、町中の至る所から死体を焼く炎が上がっていた。

授業は秋ごろから県立長崎中(当時)を借りて再開された。その後、現在の山里小に移ったが、その校舎には子どもたちの遺骨があり、集めて埋葬した。教室に窓はなく風は吹きすさぶ。雨の日は傘を差して授業を受けた。今思えば大変な時代だった。

<私の願い>

瓊浦中の友人たちはほとんど即死。私も試験が早く終わっていなかったら死んでいた。今思うと恐ろしいが、当時は死体を見ても何も感じなかった。ほかの人のことを考える余裕がなかったし、勉強をする時間もほとんどなかった。戦争は絶対に反対。あんな悲惨な体験はわれわれだけで十分だ。

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