長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

焼けただれ歩く人々

2015年3月5日 掲載
渡邊 洋子(81) 渡邊洋子さん(81) 爆心地から2・6キロの長崎市上西山町で被爆 =長崎市西山4丁目=

8月9日は町内会の会議の日。隣組の組長だった母について、朝から1歳半の弟と一緒に松森神社の社務所に来ていた。当時、勝山国民学校6年生で11歳。母たちの話をじっと聞いていると、飛行機乗りの練習機に似た爆音が聞こえてきた。

確認しようと玄関から空を見上げた瞬間、白と黄の光で目の前が見えなくなった。とっさに玄関奥に走り込んで防空ずきんをかぶり、手で目と耳を押さえて伏せた。家の中の物が背中にどんどん落ちてきた。

怖くなり大きな声で母を呼ぶと、「洋子ちゃんこっちよ」と声がする。母の元へ向かおうとすると「駄目よ」と近くにいたおばさんに手をつかまれた。しばらくして声のした方向に向かうと、丸太が崩れた中に弟を胸深く抱いた母がいた。材木を1本ずつ引き抜いて隙間をつくり、何とか2人を引きずり出した。

近くの防空壕(ごう)に身を寄せた。すると、近所の男の子が「恐ろしかとの来とるよ」と呼びに来た。壕の上の道に出ると、焼けただれた皮膚をぶら下げたり、顔がぐちゃぐちゃになったりした人々が音もなく諏訪神社方面から西山の方に歩いている。途切れない負傷者の列を私は見つめ続けた。怖さはない。どんな爆弾が落ちてこのようになったのかと、ぼうぜんと立ち尽くした。

身内もひどく傷ついた。浦上近くで防空壕掘りをしていた母のいとこの少年は、背中に大きなやけどを負った。どろどろに焼けただれた傷口に少年の母親ができることは、天ぷら油を塗ってうちわであおぐことだけ。「ちきしょう、ちきしょう」。小さくつぶやきながら、2、3日後に亡くなった。

私自身も歯茎からの出血や脱毛が起こり、怖い思いをした。今でも、治療もできずに黙って死んでいった人を思うと悔しくて、悲しくなる。

<私の願い>

負傷者の行列や親戚の背中の傷は絶対に忘れられない。米国は、よくもあのようなことをしたと思う。今の世の中も子どもの殺人や、日本と海外の関係など絶対に平和だとは言い切れない。若い人たちに、ぜひ平和とは何かについて、そしてそのために何ができるかについて考えてほしい

ページ上部へ