尾崎 正義・下
尾崎 正義・下(82)
尾崎正義さん(82) 入市被爆 =諫早市白岩町=

私の被爆ノート

怒り、悲痛な叫び響く

2015年2月13日 掲載
尾崎 正義・下
尾崎 正義・下(82) 尾崎正義さん(82) 入市被爆 =諫早市白岩町=

下宿が燃えたので、取りあえず寝床を探した。淵神社近くの防空壕(ごう)は満杯。仕方なく山中で野宿した。夜空は真っ赤に染まり、きれいだと感じた。

翌朝から“餌探し”。稲佐町周辺で壊れた家の台所付近を掘り起こす。運よく米を発見。拾った鍋に浦上川で水をくみ、周囲の残り火でご飯を炊いた。赤飯のようでおいしそうなご飯は、じゃりじゃりして食えたものではなかった。崩れた壁の赤土が交ざっていた。

食べ物を探していると、包丁を手にした友人数人が、浦上駅前で死んでいた馬の尻の肉を切って焼いて食べるという。ケロイド状の馬を思い出し、そんな気にならなかった。放射能を浴びた馬肉を食べた彼らは、どうなったのだろうか。

14日夜、長崎駅から汽車に乗り、母ときょうだい3人が疎開している南高湯江村(現島原市有明町)へ。車内には皮膚が焼け、うみがしたたり落ちている人もいた。口がただれた人が「水、水」と欲しがるので、持参していた水を入れた一升瓶を渡した。らっぱ飲みされ、後に飲む気にはなれず、あげることにした。

15日夕に到着。母らの疎開先は農家の古畳が敷かれた納屋。裸電球の下、ボロボロの服を着て痩せこけた私に、家族は幽霊が出たと驚いた。死んだと思われていて入学式の写真が遺影として飾られていた。

1955年に長崎大学芸学部を卒業し、中学の美術教諭になった。授業で被爆体験を話すことはなかった。避けていた部分もあった。70年に画業専念のため退職し渡仏。2年後に帰国し、世界に戦争や虐殺があふれていることにあらためて気付いた。罪のない人間が殺される理不尽さ。原爆を経験した自分が描かなくて誰が描くのか。そんな思いに駆られ、人間の怒りと悲痛な叫びを二十数年描き続けた。10年ほど前、個展を通じ命の恩人の高原君との再会も果たせた。

今は原爆をテーマにした作品は描いていない。発表する場もなく、70年もたつと「なぜ今更」という世間の雰囲気がある。間違いなく関心は薄れている。

【編注】尾崎正義さんの崎は大が立の下の横棒なし

<私の願い>

原爆はあまりにむごい。一瞬にして何十万人の命を奪う核は、絶対に廃絶すべきだ。原爆投下から70年たったが、世界で戦争は一向になくならず(最近のニュースなどをみると)恐ろしい世の中になっている。憎み合うことをやめ、世界中の人たちが仲良く助け合う精神が必要だ。

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