長崎市竹の久保町の下宿先から淵神社(淵町)に向かい、大鳥居で午前6時集合。そこから「こしき岩」(田手原町付近)まで5~6キロを歩き、本土決戦に備えて塹壕(ざんごう)を掘るのが日課だった。
当時13歳、旧制中1年。夏休み返上で作業に精を出していた。8月9日、大鳥居に集合した際、仲間の一人が「きょうは休もう」と言い出し、神社近くの三菱長崎造船所製材工場の貯木池で泳いで遊ぶことになった。だが、仲間の高原清光君の表情がさえない。
「母さんがせっかくコメの弁当ば作ってくれたけん、作業場に行かんば悪か…」
仕方なく自分だけ付き合うことになった。他の友人は笑って手を振っていた。これが最後の別れになるとは思いもしなかった。結果的に高原君は、命の恩人となった。
幅3メートル、深さ4メートル。つるはしを手に、こしき岩付近で上半身裸になって穴を掘っていた。原爆がさく裂した瞬間、目の前に淡いピンク色が広がった。白や黄にも見え、虹が落ちてきたような感じだった。直後に生ぬるい風が通り抜けていった。
しばらくして空を見上げると、赤黒い不気味な太陽。ただ事ではないと直感した。空から焦げた新聞紙の切れ端が降ってきた。爆風で吹き上げられたのだろう。
竹の久保町の下宿先に向かったが、県庁方面も市役所方面も燃えていて通れず、遠回りだが金比羅山を越えることにした。山に避難してきた人の中には、イギリス兵かオランダ兵の捕虜の姿もあったと思う。ほとんどが放心状態だった。
長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)の折れ曲がった煙突が見えた。そこから下り、浦上駅付近に出てきた。街がない-。荷車用の馬が黒焦げになっていた。突然“黒い固まり”にズボンの裾をつかまれた。「稲佐の○○に連絡してくれ」。その人の背中の袋からコメか大豆がプスプスとはじける音が漏れていた。
怖いも汚いもかわいそうも何もない。助ける気すら湧かなかったが、「よくもここまでやってくれたな」と米国への怒りが込み上げた。
茂里町の三菱長崎製鋼所の鉄骨は曲がりくねり、今にも崩れ落ちそう。決死の覚悟で脇を走り抜け、欄干が飛ばされた梁川橋を渡る。午後5時ごろ到着した下宿は、まさに燃え盛っていた。ただぼうぜんと見つめるしかなかった。