被爆したときは3歳で、まだ物心付くかどうかというころ。だから原爆は記憶というよりも強烈な感覚として体に刻み込まれている。
まずは光。バババッとカメラのフラッシュを何万回も浴びたように感じた。新中川町の自宅近くの路上で近所の子どもたちと遊んでいたが、すぐ近くの家へ逃げ込んだ。
昼なのに暗くなった空にぼんやり光るオレンジ色の不気味な太陽も覚えている。一緒にいた祖母と2歳下の妹と急いで自宅に向かった。すると家にいた母が迎えに来た。母の顔は引きつっていた。
家の中は何もかも倒れてめちゃくちゃ。畳が全て山なりに立っていた。爆風でめくれ上がったのだと思う。近所の家で、体が真っ黒になり、はだしの女学生のお姉さんが泣いていた。お母さんが赤チンか何かで懸命に消毒していた。
そして強烈な臭いが忘れられない。夕方、近くの防空壕(ごう)に逃げ込むと腐ったような臭いが充満していた。体中が傷つきうめいている人や、先ほどのやけどした女学生が顔を風船みたいに膨らませ、苦しんでいたと後に聞いた。いま思えば死臭だったのだろう。
被爆の影響と信じているが、とにかく皮膚が弱い。特に夏は体がかゆくてかきむしり、化膿(かのう)してかさぶたになった。学校では半ズボンから出た足を「汚か」とからかわれた。でも母が悲しむので黙っていた。
もう原爆のことは忘れたかった。8月9日は平和祈念式典に行ったこともなく、黙とうもしなかった。定年退職後の2003年、長崎原爆資料館の駐車場でアルバイトをしていたとき、見学した中学生から「なぜ日本は戦争をしたのですか」と問われて答えられなかった。それ以来、被爆遺構を巡る平和案内人として活動を始め、戦争の愚かさと平和への願いを伝えている。
<私の願い>
あの戦争は軍の暴走というが、実は国民が了解し一緒になってやっていた。原爆は戦争の延長線上にあり、戦争の背景抜きに語れない。平和憲法はもう二度と戦争をしないという反省から生まれたもの。いまの世の中の流れをとても危惧している。戦争ができる国づくりをしては絶対に駄目だ。