林田 篤
林田 篤(82)
林田篤さん(82) 爆心地から1・7キロの長崎市宝町で被爆 =長崎市かき道5丁目=

私の被爆ノート

一瞬で消えた笑顔

2015年1月29日 掲載
林田 篤
林田 篤(82) 林田篤さん(82) 爆心地から1・7キロの長崎市宝町で被爆 =長崎市かき道5丁目=

数メートルの距離が生死を分けた。目の前にいた人が亡くなった。皮膚がずるりと剥がれた人もいた。被爆から70年の歳月がたとうとしているのに記憶は鮮明に残っている。

旧制鎮西学院中1年生で13歳。長崎市宝町の自宅隣に住む三浦さんのおばあちゃんの家に回覧板を持っていき、玄関内で座って雑談をしていた時だった。ピカッと目が開けられないほどの閃光(せんこう)。そして爆風で木造2階建てのおばあちゃん宅は一気に崩れた。私は柱にしがみついたまま、材木の下敷きになった。

どのくらいたっただろう。私の名前を呼ぶ兄の声が聞こえた。助け出された後、家の奥に吹き飛ばされた三浦のおばあちゃんを捜した。何度も呼ぶとかすかに声が聞こえたが、どこにいるのかどうしても分からなかった。後日、亡くなっていたと聞いた。あの瞬間まで一緒に笑っていたのに。もし座る場所が逆だったら。考えると恐ろしい。

状況を理解できないまま自宅に戻ると母と妹はやけどを負い、重傷だった。避難しようと家を出たが母と妹が歩けない。たまたま出会ったオランダ人捕虜数人が、現在のNHK長崎放送局の裏手の山までおぶってくれた。

山から長崎の町を見下ろすと、あちこちで火の手が上がっていた。これからどうなるのだろうか。そんな私の不安な気持ちとは裏腹に、ふと見上げた空では星がきれいに輝いていた。

翌朝以降、自宅近くの防空壕(ごう)で過ごした。拾った缶詰や差し入れのおにぎりを食べた。たまに腐っているものもあったが、食べられるだけでよかった。川には水を求めて来た多くの人が浮いていた。道を歩けば、息絶えた大勢の人。手や足を広げたままの知人の遺体を見つけるたびに、それぞれの家まで運んだ。「さようなら」と言いながら。私にできる唯一のことだった。

<私の願い>

あの日のことを思うと胸が張り裂けそうで、いまだに平和公園付近に近づけない。特に、8月9日の原爆の日は式典会場で犠牲者を悼むことができないでいる。次の世代に二度と私たちと同じ思いをさせたくない。戦争がない世界で、平和に幸せに暮らしていけることが一番の願い。

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