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私の被爆ノート

黄色い液吐く若者続出

2015年1月22日 掲載
中川 美苗・上(86) 中川美苗さん(86) 爆心地から2・5キロの長崎市西山町2丁目(当時)で被爆 =長崎市西山2丁目=

父は南満州鉄道(満鉄)の職員で、私は中国で生まれ育った。転勤で15歳の時、家族5人で長崎市に転居、西山町(当時)の県立長崎高等女学校に入った。父は下関に単身赴任。母と2人の弟は大分に疎開した。私は長崎に残り、同町の満鉄長崎支社長宅に暮らしながら通学を続けた。学徒動員先は、三菱長崎兵器製作所茂里町工場だった。

8月9日は、取得した代理教員資格の証明書を受け取るため学校に行く約束を友達としていた。朝から空襲警報が発令されたが解除。同工場の責任者に1時間半だけ仕事を抜けさせてもらう許可をもらい、友達と2人で学校に向かった。

職員室で証明書を受け取った後、担任の先生と3人でしばらく雑談した。先生は午前11時までに長崎医科大に行く用事があったが、私たちのために予定を遅らせた。結果として3人とも命拾いした。先生はお会いするたびに、私に「命の恩人」と感謝し、104歳まで生きた。生死の分け目は紙一重だったと思う。

数日前の空襲の話をしていると、ブーンという音が聞こえた。米軍機のようだが、空襲警報は解けたばかり。不審に思った瞬間、目の前がパッと光り、ものすごい爆風で吹き飛ばされた。しばらくは気絶していたと思う。気がつくと、ガラス片や砂に埋まり、うつぶせに倒れていた。

立ち上がったが、辺り一面真っ白な煙に覆われ、何も見えなかった。体のあちこちに切り傷ができて、血だらけになっていた。視界が悪い中、はだしで歩いて外に出た。長崎経済専門学校(現・長崎大経済学部、片淵2丁目)近くの橋の下に負傷者が幾人も横たわり、死者の姿もあった。私はその橋の下で応急処置を受けた。浦上方面の空を見ると、火災によるオレンジ色と空の青がくっきりと分かれて見えた。

支社長宅に戻り、支社長夫婦と再会。学徒動員で大橋にいる支社長の娘を捜すため、3人で浦上方面に向かった。

浦上第一病院(現・聖フランシスコ病院、小峰町)の近くで、爆心地方面から逃げてきた学徒動員の若者40~50人の集団に会った。衣服は破け、ゲートルはほどけ、ボロボロの姿。みんなぼうぜんとし、心を失っているように見えた。その中に支社長の娘もいた。若者たちを連れ、金比羅山を越えて、西山方面に引き返した。途中、黄色い液体を吐いて座り込み、動けなくなる若者が続出した。

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