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私の被爆ノート

「長くは生きられない」

2015年1月15日 掲載
安井 敬(78) 安井敬さん(78) 爆心地から4キロの長崎市本河内町1丁目(当時)で被爆 =長崎市宿町=

普段と変わらない日常を過ごしていた。当時9歳で伊良林国民学校の4年生。家族は両親と6人きょうだいの8人暮らし。学校は休みが続いていた。あの日もいつも通り、木造平屋の自宅で蓄音機やラジオを聞いていた。

警戒警報が鳴るとすぐ、自宅から約70メートル先の防空壕(ごう)に向かった。春に壕を掘る作業で片足をけがして以来、人より速く走れないため、そういう癖がついていた。

壕には私1人。入り口の扉を半分開けて外を見ていた。銀色にキラキラ光る飛行機が、七面山方面から浦上方面へ飛んで行くのが見えた。

ピカッと周囲が光ると、すごい音と風に襲われ、道を挟んだ神社の石製の鳥居が小刻みに揺れた。「近くに爆弾が落ちた」。恐怖に駆られ瞬間的に壕の奥へ。直後、強烈な暴風で扉が吹き飛ばされた。あのまま入り口にいたら扉に当たって死んでいたかもしれない。

壕には私の家族も含めて多くの人が避難してきた。外を見ると、濃い赤の真ん丸な太陽が浮かんでいた。あんな太陽は後にも先にも見たことがない。「煙が相当ひどいのかな」。やけどで真っ赤に腫れた人、「痛い痛い」と声を出すけが人が、続々と日見方向へ向かっていた。

家族8人ともけがはなかったが、翌日くらいから全員、2センチくらいの紫色の斑点が体中に現れた。病院に行くお金もない。ドクダミ草を煎じて2~3カ月飲み続けた。

斑点がいつの間にか消えると、今度は親指大から小指大のこぶが家族の体のさまざまなところにできた。赤く腫れ、黄色いうみが出てきた。痛かった。「長くは生きられない」。幼いながらいつ死ぬのだろうかと思った。

母は歯槽がんで、父は肺がんと胃がんで、弟もがんで、兄は首に大きな腫れ物ができて、死んだ。私も肝臓がんで5回手術を受けた。原爆のせいだろうか。

<私の願い>

原爆の恐ろしさは未来永劫(えいごう)その影響が続くこと。体に一度放射線が入ると、いつ取れるのか分からない。本当に嫌な思い出だ。核廃絶は絶対に必要。各国の偉い人たちが、よその国を攻めようとする欲を出さないことが大事だ。どんなことがあっても世界が平和であることが一番の願い。

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