当時12歳。浦上天主堂近くの長崎市本尾町で両親、弟3人と暮らしていた。空襲から逃れるため、8月に入るころ、村松村子々川郷(現時津町子々川郷)のおばの家に疎開した。父は1人で家に残っていた。
あの日、おばの家の前で遊んでいると、青空にもくもくとした雲が見えた。光や音は感じなかった。近所の人と一緒だったが、何が起きたかは分からなかった。
3時間ぐらいして、長崎方面からたくさんの人がぞろぞろ歩いてきた。「爆弾が落ちた」「長崎が燃えている」「全滅ばい」と言いながら通り過ぎて行った。大変なことになっていると想像したが、恐怖心はなかった。
翌日、父を捜しに長崎に向かった。時津村元村郷の打坂に差しかかると、長崎から来たおじに出くわした。「火の海だから帰りなさい」と言われたが、道ノ尾まで行った。大けがをした人や介助する人たちがぞろぞろと歩いてきた。あまりの恐怖心で引き返した。
翌日、母と一緒に再び長崎に向かった。まだ所々、家屋が燃え、煙が上っていた。人も馬も牛も、ごろごろと倒れ、死んでいた。自宅があった本尾町はバラック建ての家ばかり。爆風で押しつぶされ、燃え尽きて何もなかった。道もなく、材木を乗り越えて歩いた。自宅はなかった。父は爆風で吹き飛ばされたのか、自宅から6~7メートル先の石垣のそばで死んでいた。
父を荼毘(だび)に付すため、母と木切れを集めた。遺体を全部焼けるほどは集まらず、手か足の一部を焼いた。その部分の骨を、焼け焦げたミルク缶に入れ、遺体はそのままにして帰った。悲しくはなかった。周囲はむちゃくちゃな状態で錯乱状態だったと思う。
戦後は、自宅があった敷地に掘っ立て小屋を建てて暮らした。母は気丈な人で、木炭やナマコを買い付けに行き、それを売って、生計を立てた。
<私の願い>
父が亡くなり、母が残され苦労した。無一文だったのでお金を稼がないと食べていけなかった。健康被害はなく、普段は原爆のことを意識しないよう自分に言い聞かせてきた。ただ手足を失ったベトナムの子らを見ると原爆のことが頭をよぎる。人が殺し合う戦争のない、平和な世界になってほしい。