松岡スエ子
松岡スエ子(87)
松岡スエ子さん(87) 長崎市で救護被爆 =大村市水主町2丁目=

私の被爆ノート

幼い兄妹の死に涙

2014年12月25日 掲載
松岡スエ子
松岡スエ子(87) 松岡スエ子さん(87) 長崎市で救護被爆 =大村市水主町2丁目=

大阪市で日赤病院の看護学校に通っていたが、空襲が激しくなり、佐世保市世知原町の自宅に待機するよう命じられた。家でも警戒・空襲警報が鳴ると防空壕(ごう)に逃げる日々。原爆が落ちたときも壕に逃げる途中で、辺りがピカーッと光ったのを覚えている。

当時17歳。1945年8月16日から8日間、長崎市で被爆者救護に回された。陸軍の救護所だった長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)で一つの教室を受け持った。

ござのようなものを敷いた床に、顔の前後が分からないほどやけどした大人や子どもが10人ほど寝ていた。その中に、小学校低学年と幼稚園ほどの兄妹がいた。2人はぐったりして、枕元に両親のお骨が置かれていた。

男の子は腕をやけどしていた。包帯を付け替えるとき、軍医が手荒くはがすので、止まった血がまた出てくる。「先生は痛い。看護婦さんがして」と泣くので、かわいそうになり、消毒液で湿らせてゆっくりはがすと、軍医から「それじゃ間に合わん」と怒鳴られた。

ある日、飛行機が飛ぶ音がした。おそらく米軍機だ。男の子は原爆で両親を失い、悔しかったのだろう。横になったまま「ちくしょう」と天井に拳を突き上げ、泣いた。

2人は同じ日に亡くなった。女の子はけがはなかったが内臓をやられていたと思う。担架に並べて部屋から出された。みんな涙を流し、見送った。

体育館も受け持ったが、端の方にお棺がたくさん並んでいた。遺体を焼くのが追いついていなかった。屋根が雨漏りしていたので、お棺の中もぬれていたのだろう。底から血がにじみ出ていた。

壁に負傷者の名前の一覧が張ってあるのに気付いた。大阪の寄宿舎で共に学び、枕を並べて寝ていた女性は爆心地近くの出身なので、帰省していたはず。元気でいてと願い、名前をたどり、見つけた。だが、赤い線で消されていた。助からなかった。

<私の願い>

核兵器は怖い。戦争も絶対にだめ。孫や子のために平和が一番だ。安倍政権による集団的自衛権の行使容認や憲法改正への動きは、戦争できる国に戻っているようで危機感を抱いている。大村市では毎年、自衛隊が銃を持ってパレードしているが、異様な雰囲気。戦争を思い出すので、見たくない。

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