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私の被爆ノート

実家への道々で悲鳴

2014年12月18日 掲載
尾道 哲朗(87) 尾道哲朗さん(87) 爆心地から1・8キロの長崎市家野町(当時)で被爆 =西彼時津町日並郷=

当時の長崎師範学校は、長崎大付属小(現・長崎市文教町)の場所にあった。18歳の本科生で、毎日のように勤労動員をこなしていた。みんなは夜勤を嫌っていたが、好んで務めた。夜食を含めて1日4回ご飯が食べられるのが魅力だった。大根めしのようなものだったが。

8月のあの日も前夜、住吉のトンネル工場で旋盤を回し、9日午前8時半ごろ、師範学校宿舎の2階の部屋で床に就いた。熟睡したのだろう。

気が付くと宿舎横の畑に横たわっていた。周囲は灰が舞い上がって夕方のように暗い。左半身、左足にやけどを負い、浴衣も焼けていた。泣き叫ぶ声。「防空壕(ごう)に入れー」の声。耳に入ってはいるが、理解が追い付かない。なぜここにいるのか。宿舎ごと原爆に吹き飛ばされたと分かったのは後からだ。

先生にやけどに効くというアロエをもらい、長与日当野の実家へ帰ることにした。道々、馬がひっくり返っていたり「水を飲ませて」「(どこどこが)痛い」などの声が聞こえたり。人の姿はほとんど見なかった。再び空襲があることを恐れ隠れていたのではないか。

慣れた道で、どこに水が流れているかを知っていたのが幸いした。やけどは痛んだが、仲間には兵隊に行った者もある。泣き言は口にせず歩き、人の見ていないところで、はうようにして進んだ。

実家で母に「長与国民学校に行かないとちゃんとした治療が受けられない」と促され、再び歩いた。救護所になっている長与国民学校講堂にたどり着いたのは、もう午後8時か9時ごろだったろうか。

小学校の先生になったが、若いころはまだケロイドがはっきり目立っていたので、夏でも丸首、長袖のシャツを着た。当時は「原爆はうつる(伝染する)」といった根拠のない風評もあったので人目につかないようにしていた。

<私の願い>

戦争は理屈でああだこうだ言っても止めきれない。一人一人が本気になって行動していかないと助からない。しかし人間はやはり弱いのか、日本も世界も危ない方向に向かっている気がする。世界のどこで火柱が上がるか分からない今このとき、本気で考え、行動する民族でありたい。

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