戦時中は伊良林国民学校生。学校ではいつも日本が戦争に勝っている様子を絵に描き「自分も大きくなったら兵隊さんになりたい」と思っていた。空襲のたびに自宅の床下や近くの寺の地下室に逃げたが、その際の恐怖心はあまり記憶にない。立山から照らすサーチライトで、空が明るくなっているのが印象的だった。
8月9日。当時3年生で8歳。天気が良く、とても暑い日だった。八幡町の乾パン配給所に並んでいると、飛行機が近づく爆音が聞こえた。「友軍機が来た」。誰かの声につられ、配給所から外に出て空を見上げた瞬間、目の前が真っ白になった。瓦が崩れ落ち、砂ぼこりのせいか、周りが真っ暗になった。
近くに爆弾が落ちたと思い、自宅に走った。周りの景色は覚えていないが、いつもより道のりは長く感じた。自宅は崩れていなかったが、屋内の物が倒れていた。自分と三つ年上の兄は、近所の人に誘導されて若宮稲荷(いなり)神社に避難した。
町は大火事だった。火の海に包まれ、ユラユラと揺れていた。誰も消そうとする人がいないのが不思議で不気味だった。黒い煙がモクモクと上り、空はどす黒い赤色に染まっていた。「ここまで火が来てしまうかも」と、とにかく怖くて一晩中、震えていた。
翌日、母が迎えに来た。三菱長崎兵器製作所茂里町工場に学徒動員されていた姉も無事。姉は、焼け焦げて死んだ人や浦上川に逃げ込む人などで混乱する中、防火ずきんに水をかぶせながら歩いて来たという。「地獄を見た」と言っていたが、多くを語らなかった。
別の避難所で終戦を迎えた。「ようやく家に帰れる」と思ったが、「米軍が来るから女子どもは危ない」と母、姉は佐賀県の鹿島に避難。自分と兄は自宅に残った。中国にいた父が帰国し、久しぶりに家族全員がそろったのは、しばらくしてからだった。
<私の願い>
今年初めて小学校で被爆体験を語った。本当は、どんな問題でも話し合いで解決できればいいが、それはとても難しく紛争が各地で起こっている。それでも、核兵器のような悲惨なものは絶対に使ってはいけない。子どもたちに、どうすれば平和な世の中になるのか、具体的に考えてもらいたい。