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私の被爆ノート

けが人のうみにうじ虫

2014年11月20日 掲載
増田 鶴枝(85) 増田鶴枝さん(85) 爆心地から3・4キロの長崎市西浜町で被爆 =対馬市厳原町久田道=

16歳のとき、対馬を出て女子挺身(ていしん)隊として本土で働くよう命じる通達があった。10代後半の少女数十人が、厳原港に集められ、船と汽車で長崎に向かった。

長崎では、三菱重工長崎造船所が飽の浦国民学校に旋盤などを運び込んで工場として使っていた。私は本石灰町の寮で暮らしながら工場に通い、飛行機のナットなど金属部品を加工していた。

あの日、仕事が休みで西浜町の商店街で買い物をしていた。急に空がピカッと光った。周囲の建物が崩れて道のあちこちがふさがれた。寮まで帰ると、玄関のげた箱が倒れ、寮内はめちゃくちゃになっていた。

部屋から防空頭巾と非常用のかばんだけをつかみ取って、近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだ。1時間ぐらいたつと、男性が入り口で「近くまで火災や煙が迫っているから逃げろ」と叫んだ。田上まで逃げたが、無我夢中だったので周りの情景はよく覚えていない。

三日三晩は山の中で野宿。寮に戻り、働いていた飽の浦国民学校の工場でけが人の介抱に当たった。廊下には、全身にやけどを負ったけが人が10人ほど横たわり、なんとも言えない臭いが漂っていた。やけどで顔はよく分からない。声は出ないけれど、口だけが「みず」と動いていた。でも周囲から、水をあげてはいけないと言われて、ただ見守るしかなかった。

傷口のうみには、うじ虫がわいていた。うじ虫を割り箸で1匹ずつ取った。けが人は意識がない人がほとんどで、うめき声だけを上げていた。

終戦でやっと対馬に戻れることになった。友人たちと長崎駅まで歩き、貨物列車の荷物の隙間に潜り込んで博多駅まで行き、運搬船に乗って対馬に帰った。厳原港で下船。対馬中部の千尋藻で迎えに来ていた母親と再会した。母は涙を流して私を抱き締めてくれた。私も涙が止まらなかった。

<私の願い>

戦争は惨めで、ない方がいい。当時の情景を目の当たりにしていない若者には、戦争や原爆への無関心が広がっているように思える。高校生が外国で原爆について訴える姿には感心するが、8月9日に黙とうをしない人も少なくない。若い人は戦争や原爆についてもっと知っておいた方がいい。

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