故郷は小値賀島。当時9歳で、母の出稼ぎのため長崎市八千代町に母、祖母と住んでいた。西坂国民学校3年生。父は出征していた。8月9日は暑く、自宅近くで友人2人と水遊びをしていた。昼前に弁当を届けてくれた祖母と木陰に座り、食べようとしていた。
そのとき、空が一瞬真っ暗になり耳鳴りがした。当時、空襲のとき目と耳を防ぐ訓練をしていたので無意識のうちに腹ばいに。後に「大きな音がした」という人もいたが私は気付かなかった。
われに返り、落とした弁当箱をのぞくと中身は、こぼれたのか空になっていた。祖母に「急いで防空壕(ごう)に入ろう」と言われたが、さっきまで遊んでいた友達のことが気に掛かり、捜しに戻った。
必死に捜していると、崩れた塀に目が向いた。肉片や血が付いたシャツと半ズボンの切れ端がぶら下がっていた。言葉が出ず、ぼうぜんと立ち尽くしていたが、祖母が待つ壕へと引き返した。
壕に戻ると血まみれの人や、衣服が破れ背中の皮もめくれた多くの兵隊の姿があった。みんな声も出さず痛みに耐えていた。夜になると「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぶ声が響いた。韓国人の徴用工だったのだろうが、何が起きているのか理解できなかった。夜、無数の火の玉のようなものが舞っていたのを覚えている。
翌朝、片方素足のまま市役所におにぎりを取りに行った後、壕に戻ると自治会長から「敵が来る。立山町の金比羅山に上がれ」と言われ、祖母らと向かった。午後になり下山し、気掛かりだった自宅の母の所へ。爆風で家は崩れていたが、母は髪の毛が焼け、やけどを負いながらも無事。泣きながら抱き合った。
道ノ尾にある知人宅に母、祖母で身を寄せ、10日ほど後、佐世保港から1日おきに出ていた定期船で故郷の小値賀島へ戻った。
<私の願い>
小値賀島に戻ったころ、友達から「原爆がうつる」などと心ない言葉を浴びせられ、いつも1人で泣いていた。長崎市出身の妻(80)も被爆者。今は計8人の孫にも恵まれ、平和な世界であってほしいという思いが一層強くなった。多くの尊い命を奪う戦争は、絶対に繰り返してはならない。