原爆で倒壊した三菱兵器製作所大橋工場。私は負傷者の救助活動をしながら鷹島時代からの親友を捜していた。幼なじみの彼は、この工場で製品検査の仕事をしていた。
数人の重傷者や遺体を運び、ようやく救助活動を終えた時、負傷者が横たわる方向から私の名を呼ぶ声が聞こえた。近寄ると親友がそこにいた。
手足を動かすことができず、目も片方しか開いていなかったが、声を振り絞ってくれていた。「助かったのか」。少しだけ安心し、トラックで病院まで運んでもらうよう兵隊さんに頼み込んだ。彼は諫早の病院へ運ばれていった。
大橋工場での救助を終えた後、仲間とともに寄宿舎の山王寮に帰ろうとしたが、途中で寮が燃えてしまったことを知り、再び工場に戻った。工場の地下には非常米が備蓄されていた。にぎり飯をいくつかもらい、トンネル工場の人たちに食べさせるために車力(しゃりき)で運んだ。トンネルの中は電気が復旧しておらず真っ暗だったが、他に行く当てもなく、慣れ親しんだ旋盤の隣で夜を明かした。
数日後、仲間と話し合い、帰郷することを決めた。何よりも、病院に運ばれた親友のことを早く彼の家族に伝えたかった。道ノ尾駅では切符を買うことができず、大草駅(現・諫早市多良見町)まで歩いて汽車に乗車。早岐駅経由で、鉄道と船を乗り継ぎ、翌日、鷹島にたどり着いた。
親友宅を訪れ、母親と祖母に彼が病院に運ばれたことを報告することができた。他の家族は出征などで不在だった。後で知ったことだが、彼は被爆の2、3日後に亡くなり、母親らと生きて会うことはできなかったようだ。私だけが生き延びてしまったと申し訳なく思った。その後、彼の母親には顔を合わせることができなかった。
帰郷後は1年ほど体調が優れなかったが、その後は定年まで農協に勤め、大病もなかった。
被爆はつらい記憶で、家族にさえずっと明かせなかった。2年前、住吉トンネル工場が一般公開されたことを知り、話せるうちに伝えておこうと思い、妻と子どもたちを連れて訪れた。そこでようやく当時を語ることができた。
<私の願い>
子ども4人と孫7人に恵まれたが、自分自身や子どもたちの体に被爆の影響が出ないかずっと不安を抱えてきた。世界にはいまだに1万数千発の核兵器が保有されていると言われていて、大変恐ろしい。絶対に使わない、使わせないよう、核廃絶の運動をこれまで以上に広げてもらいたい。