1944年3月、鷹島国民学校高等科を卒業。4月から同級生5人と共に長崎市の三菱工業青年学校に進んだ。寄宿舎は坂本町の山王寮。三菱兵器製作所大橋工場で旋盤作業などの実習をしながら学校に通った。
戦争が激しくなるにつれ、1年生の後半ごろから工場勤務の時間が増え、2年生に進級してからは学校にほとんど行けなくなった。5月ごろ、作業場が住吉トンネル工場に移り、残業と徹夜続きの毎日。鋳物を旋盤で削り、魚雷の内部に使うピストンを組み立てる作業に昼夜問わず当たった。
2号トンネルの南側入り口から約150メートル地点が私の定位置だった。トンネル工場の同じ作業場には同級生の仲間が30人ほどいて、私は班長を任されていた。食事は大豆のかすを搾ったものと海藻のつくだ煮ばかり。今思うと、よくあのような状況でアメリカに本気で勝とうとしたものだ。
8月9日もトンネルの中にいた。当時16歳。天井の電球が一瞬消えて真っ暗になり、ぼやっと光が戻った瞬間、強い風が吹き込んだ。入り口付近に爆弾が落とされたかと思ったが、外の状況はまったく分からなかった。
上司の命令で数十分間待機したが、「トンネル内も危険だから外に出てトンネルの上の丘に登れ」と指示を受け、西側の丘へ。そこから見た景色は忘れられない。木造の建物が倒され、何もかもがなくなっていた。遠くに、山里国民学校の窓から火が噴き出しているのが見えた。
その後、トンネル南側の広場に集められ、三菱兵器製作所大橋工場に応援に向かうよう指示された。数人の仲間と歩いて向かったが、道沿いにあった木造の建物は倒壊して、材木が散らばっていた。
大橋工場は建物の鉄骨が折れ曲がり、崩れていた。東側の正門前に、たくさんの負傷者が運び出されていて、私たちも2人一組となって、がれきの下敷きになった人たちを助けて回った。熱線や熱風を受けてやけどをした人ばかり。遺体も多くあった。
「水をくれ」と何度もせがまれた。「飲むと死にますよ」と答え、あげることはしなかったが、防火用水を手でくんで飲ませてあげる人もいた。あの時、あげた方がよかっただろうか。「水をくれ」「死んで楽にさせてくれ」という声が今もよみがえってくる。