当時15歳。平戸国民学校を卒業後、長崎市内の三菱長崎工業青年学校に通っていた。週に2回しか授業がなく、それ以外は岩瀬道町の木工場でかんながけや、のこびきなどを習っていた。
あの日は朝から警戒警報が鳴り、飽の浦町の寮で待機したが1時間ほどで解除になり工場で作業していた。突然真っ赤な光が走り、顔に熱を感じた。次の瞬間、爆音とともに3メートルほど飛ばされた。
大きなけがはなく、私たちは工場の防空壕(ごう)で待機。夕方になって外を見ると、長崎の町は真っ赤に燃え、夕日に照らされた入道雲が広がっていた。夜は寮の裏手の山に避難。B29が照明弾を何発も落としていたので、写真でも撮っているのではと思った。
翌日は救助活動のため爆心地に近い青年学校に向かった。道中、やけどの治療をしたのか全身に白い粉をまぶした人たちが何十人も長与方面に向かって歩いていた。学校には真っ黒な遺体がたくさん転がっていた。「遺体の身元確認をするから遺体を動かすな」などと言われ、その日は何もせずに帰った。
帰り道、浦上駅前で皮膚がどろどろになった人を助けようとした。仲間と担架に乗せようとしたが、「自分はもうすぐ死ぬから水だけ飲ませてほしい」と言われた。だが周囲に水はなく、ただ見ることしかできなかった。その人がどうなったかは分からない。
その後、私は茂里町の三菱長崎製鋼所のがれき処理に従事。エンジンの音を聞いただけで「また空襲か」と、防火水槽に飛び込む人もいた。私も寮の裏の畑で戦闘機から機銃で撃たれるなど、怖い思いをした。
1カ月半ほどたって平戸の実家が気になり、帰った。私は髪の毛が抜け、下痢や嘔吐(おうと)に苦しんだ。当時は後遺症について知識はなく、「何でだろう」と思いながら寝込み、しばらく何もすることができなかった。
<私の願い>
今でも当時の悲惨な情景が目に浮かび、思い出すのもつらい。テレビで原爆のことをやっていてもすぐに消してしまう。食べ物も無く、着物もぼろぼろだった当時と比べて、今は本当に自由で平和になったと思う。一瞬で人の命を奪う核兵器はもちろん、戦争だけは繰り返してはいけない。