木下 睦子
木下 睦子(81)
木下睦子さん(81) 爆心地から3・2キロの長崎市東古川町で被爆 =島原市下川尻町=

私の被爆ノート

生徒名簿 黒線ばかりに

2014年10月16日 掲載
木下 睦子
木下 睦子(81) 木下睦子さん(81) 爆心地から3・2キロの長崎市東古川町で被爆 =島原市下川尻町=

当時12歳で長崎高等女学校1年。西海市大島町の親元を離れ、叔母の知人宅(東古川町)に、大島出身の同級生と2人で下宿していた。3、4年生は学徒動員で学校にいなかった。1、2年生は登校しても警戒警報で下校。空襲が頻繁になると注意報で下校になり、授業どころではなかった。

あの日も注意報で下校した。帰宅途中でB29爆撃機の爆音が頭上に聞こえ、急いで下宿の2階に逃げ込み、自分たちの部屋の押し入れに身を潜めた。直後、今まで聞いたことがないような大きなごう音と、地震のような震動に襲われた。

1階に下りると爆風で家具などが散乱し、足の踏み場もない。みんなで寺町の高台に避難することにした。外は負傷して倒れている人がたくさんいた。がれきの下敷きになった中年男性から「水をください」と請われた。水を飲ませたら死ぬと聞いていたのでためらったが、どちらにしても助かりそうにない。水筒の水をあげると、「広島から出張で来ていた」と無念そうに言っていた。

高台から浦上方面を見ると、建物は壊れ、赤々と燃えていた。火がだんだんと近づいてくるのが分かる。県庁も燃え上がった。一睡もできず、長崎の町が燃えるのを、ただぼうぜんと見ていた。

翌日、佐世保行きの汽車が出ると聞き、道ノ尾駅を歩いて目指した。浦上が爆心地とも知らず、それは地獄の道だった。黒こげの死体がいやが応でも目に入る。私も、同級生の友人も無口になった。焼け野原の地面は、まだチロチロ燃えていた。たどり着いた駅は、けが人であふれていた。

大島で終戦。約2カ月後、新たな下宿先も見つかり、復学した。クラスメートの数は半分ぐらいに減っていた。軍需工場に動員されていた3年生以上は特に被害が多く、学校の生徒名簿は亡くなった人たちを消した黒線ばかりの、無残なものになっていた。

<私の願い>

広島と長崎での原爆の惨状、そして東日本大震災の福島原発事故を見ても、核の恐ろしさが分かったと思う。核と人類は共存できない。戦争も原爆も、あんな体験を次の世代に味わってほしくない。集団的自衛権の行使が議論されているが、日本が戦争への道を進むのではないかと懸念している。

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