防空壕(ごう)は、父(昼雄)が石工に頼み山中に掘ってもらっていた。広さは一畳もない程度。夕闇が迫る中、駆けつけると父は壕の入り口に、中には継母と4人の弟妹がいた。
16歳の恵美子と14歳の普美子は実の妹、6歳の甫(はじめ)、4歳の功は継母が生んだ弟だった。
被爆当時、父は甫を連れ、昼ご飯を壕に持ち帰ろうとして自宅にいた。家は倒壊したが甫を守り、2人とも目立った外傷もなく壕に戻った。継母と功は壕内におり、熱線と爆風を免れた。
しかし、学校が夏休み中だった普美子は、壕の前で熱線を全身に浴びた。朝はブラウスにモンペ姿だったのに、衣服はパンツのゴムを残して焼け落ち、肌は赤黒くただれていた。近所の淵国民学校内にあった軍需工場(爆心地から1・1キロ)に徴用されていた恵美子は、建物の下敷きとなり全身打撲。息も絶え絶えに壕までたどり着いた。
夜になっても敵機が飛来。家族7人が身を寄せ合う壕内は狭く、妹たちを横たえることもできない。
私は一晩中、腕に普美子を抱きかかえて過ごした。「大丈夫ね」と尋ねると、かすかに「大丈夫」と返ってきた。しかし、だんだん体が冷たくなっていくのが分かった。マッチを擦ってみると、息を引き取っていた。無傷に見えた甫も、眠るように死んでいた。
10日、焼け残りの木材を父と集め、普美子、甫を荼毘(だび)に付した。手向ける花もなく、燃えていくのをただただ見守った。あまりの惨状に感情がまひしていたのだろう。涙も出なかった。焼け跡から探し出したアルマイトの鍋に、まだ温かい2人のお骨を拾い集めた。
12日、今度は功が死去。父は動くのがつらそうだったが、力を合わせて火葬した。その後、父を諫早の親族宅に連れて行ったが28日に亡くなった。継母は自分の実家に戻った。
家族でただ一人残っていた恵美子は諫早の病院に入院。体中に斑点ができ、歯茎は黒くただれながらも、9月10日まで持ちこたえた。臨終の床で「姉ちゃん、きれいか船の来よる。父ちゃんも、ふみちゃんもおるよ」とつぶやき、息絶えた。
私は叔父らが焼け野原に建てた小屋で暮らした。雨の降る晩は、青白いリンの光が辺りに立ち上っていた。