当時17歳。活水女子専門学校の学生で、学徒動員のため西彼香焼村(現長崎市)の川南造船所で金属を削る作業をしていた。何の部品なのかは教えてもらえなかった。
その日は2階建ての建物の2階で、同級生ら約50人と作業を続けていた。昼前、長崎市の方角に突然赤いような黄色いような光が見えた。太陽が落ちたのかと思った。作業を中断して、みんなで外に出た。強い風が吹き、上空にはきのこ雲が広がってくる。防空壕(ごう)に逃げ込んだ。そのまま作業終了となり、船に乗って長崎市本古川町の自宅へ帰った。夜になっても、浦上方面の兵器工場へ学徒動員で行っていた3歳下の妹が帰ってこない。翌朝、姉の夫とその弟の3人で、妹を捜しに水筒や着替えを持って出掛けた。
浦上が近づくと、焼けたり壊れたりした建物が増え、ゴム靴の裏が熱く感じるようになった。道端で、真っ黒焦げになっている人間や、牛、犬の死骸を乗り越えながら、妹を捜して回った。うつぶせの遺体があればひっくり返して確認した。大けがをした人から「水をください」と言われ、妹のために持ってきた水筒の水を少し分けてあげると、そのままぱたりと倒れた。
1~2週間ほど毎日捜したが、妹を見つけることはできなかった。その間、遺体を焼く手伝いもした。次々に運ばれてきた遺体に、灯油を掛けて火を放った。臭いがたまらなかった。
妹を見つけるのを諦めかけていたある日、自宅に知らない男性が訪ねてきた。妹を救援列車に乗せ、諫早の病院へ連れて行ったという。翌日、父と2人で向かった。その男性の名前を尋ねなかったのが悔やまれる。
ござの上で横になっていた妹はすぐに見つかった。戸板に乗せて佐賀の父の実家へ運んで看病し、妹は生き延びた。私は髪の毛が全部抜けた。
<私の願い>
あのように恐ろしい光景が広がる事態になるような戦争は、決して繰り返してはならないと強く思う。これまで被爆体験を話したことはなかったが、子どもや孫たちに知ってほしいと思い、初めて話すことにした。同じ世代がどんどん亡くなっているのがもどかしく、しっかり伝えたい。