当時19歳。実家がある堂崎村(現在の南島原市有家町)を出て、挺身(ていしん)隊として、長崎市出来大工町の長崎電気軌道本社寮で寮母をしていた。
あの日。炊事場で昼食の準備を手伝っていた。すると、突然ピカッと光が差した。次の瞬間、「ドーン」という大きな音。辺りは真っ暗になった。怖くなって、2階に駆け上がり、机の下に入った。しばらくして窓の外を見ると、通りを大勢のけが人がぞろぞろと歩いている。みんな顔は黒くすすけ、服はぼろぼろ。皮膚が垂れ下がっている人もいた。夜は、日見トンネル近くの民家の軒下で他の寮生と過ごした。
翌朝、爆心地に近い岩川町の叔母の家族が心配で捜しに行ったが、一面の焼け野原。消息が分からず銭座町の親戚を訪ねると、叔母の娘の紀子(当時5歳)が預けられていた。叔母は、やけどを負い、息子の益行(当時国民学校4年)が付き添って時津の救護所に行ったらしかった。
私は紀子をおんぶし寮に戻った。右足の薬指を少しけがしているだけのようだったが「痛い、痛い」と繰り返し訴える。伊良林国民学校の救護所に連れて行き、治療してもらったが、まだ痛そうにしていた。寮生たちを帰した後の12日、紀子と堂崎村の実家に帰郷した。
その後、叔母が島原の病院に移ったと聞き、紀子と向かった。ベッドの上の叔母は元気がなく、言葉を交わすのがやっとだったが、紀子と再会し、お互いうれしそうな表情を浮かべていた。益行もけがは軽く、髪が次第に抜けていくと言っていたのが気になったが、元気そうだった。
だが数日後、紀子は息を引き取った。さらに叔母と益行も相次いで亡くなった。あの親子のことを思い出すとふびんでならない。あれから70年近くたったが、紀子をおんぶしたときの背中のぬくもりを忘れないでいる。
<私の願い>
姉のように慕っていた同郷の友人も原爆で亡くした。あのような悲劇は二度とあってはならない。戦争を知らない世代が増えている。集団的自衛権の行使容認など、日本が戦争できる国になろうとしていないか心配だ。憲法9条によって平和が築かれた。これからも9条を守っていくべきだ。