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私の被爆ノート

負傷者 講堂に隙間なく

2014年9月4日 掲載
西田アヤ子(87) 西田アヤ子さん(87) 諫早市で救護被爆 =諫早市高来町=

1945年の春から諫早市役所(当時高城町)で臨時職員として勤めていた。あの日、水道料金の請求書を手書きで一枚一枚作っていると騒がしくなった。

女性職員が操作してサイレンを鳴らした。間もなく誰かが「長崎に新爆弾が落ちた」と言った。職員たちは慌てて近くの防空壕(ごう)に役所の書類を次々と運んだ。

しばらくして上司から当時東小路町にあった諫早高等女学校(現諫早高)に救護に行くよう指示された。着くと戦争に行かなかったお年寄りたちが戸板にけが人を載せて講堂に運び込んでいた。

講堂の中は直視できない光景が広がっていた。目玉が飛び出た人、男女の区別も付かないほど焼けただれた人。隙間もないほど埋まっていた。

男のかすかな声が耳に入ってきた。

「あんたたちもこがんなっとよ」

震え上がった。米国は諫早にも新爆弾を落とすかもしれないと思った。

救護といっても、薬も消毒液もない。ほとんど何もできない。「水、水」と叫び声は繰り返されるが、ほかの市職員に「飲ませたら死ぬよ」と言われていた。

原口町の友人宅に泊まり翌日再び講堂に行くと、すでに死んだ人が多いからか負傷者の数は減っていた。その目や鼻や耳からうじやハエがわいていた。素手で取り除こうと救護に当たったが、本当は一秒でも早く逃げ出したかった。

その後、栗面町の自宅に戻った。父は毎日のように現在の県立総合運動公園付近に出掛けた。

「死体を焼きにいかんば」

無口で感情を出さない人だったが、内心はつらかっただろう。

私は48年に結婚。4人の子を授かった。しかし54年に次女の良子(よしこ)はおっぱいも十分に飲めないまま1歳で死亡。61年に長女の靖子(せいこ)は白血病で亡くなった。原爆のせいだ。

<私の願い>

米国は原爆という恐ろしい兵器を造った。そして今ではボタン一つで人を殺す仕組みになっているはずだ。どうして人間同士が殺し合いをしなければいけないのか。戦争は惨めだ。すべての国々が核兵器を今後造らず、使用を禁止するようになるべきだ。若い人は被爆者の声に耳を傾けてほしい。

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