たった一瞬で、町中から人の気配が消えた。目の前に広がるのは見たこともない光景。一刻も早く自宅に帰りたいのに、知らず知らずのうちに、爆心地の方向に向かっていた。
原爆投下時、長崎市鳴滝町の旧制県立長崎中3年生で14歳。学校が三菱造船所の疎開工場になっており、軍事品の部品の仕上げを担当していた。納品して工場に戻った瞬間、目が開けられないほどの閃光(せんこう)が走り、爆風が吹き付けた。爆心地との間にある山が風を遮ったはずなのに、窓ガラスが割れた。
諏訪神社近くの母の実家に立ち寄り、飽の浦町の自宅に大波止から市営交通船で帰ろうとしたが運航していないと聞き断念。金比羅山にいる兵隊に何が起きたか教えてもらってから山を越え浦上川を渡ろうと思い付いた。この時は浦上方面の状況を知らなかった。
午後1時ごろ着いた山は、熱気が立ち込めていた。あったはずの兵舎はなく、人影もない。見下ろした浦上地区は燃え盛っていた。赤黒い雲が広がり、不気味。
山を下りようと歩き出した私に何人かの人が「行くな」と声をかけてきた。家に帰りたい一心で、それを振り切り、走った。山にあった墓場では、全身黒焦げの人が、真っ黒な木の塊のようになった子どもを抱いて「鬼になれよ」と語りかけていた。絞り出すような声で何度も何度も。私は、金縛りにあったように動けなくなった。
その後、叫び声を上げながら無我夢中で山を下りた。三菱長崎製鋼所の建物の鉄骨は、まるであめ細工のよう。淵神社近くにあった川では、水を求めて来た人が何人も重なって死んでいた。
叫び声、壊れた家屋、下敷きになった馬の死骸など鮮明によみがえる。犠牲になった同級生を忘れることはできず、あの日、自宅を目指して歩き回った道を今通ると胸が苦しくなる。
<私の願い>
原爆を知らない人は、核兵器を戦争の道具だと思っていないだろうか。抑止力になるとか、その程度の話ではない。とにかく、戦争がない世の中にしてほしい。人間がすることで、こんなにも無意味なことはないから。犠牲になるのは一般の人たち。今の生活が一番大事だと気付くことが大事。