当時、旧制県立長崎中1年で13歳。授業は午前と午後の2部制で、8月9日は午後の登校だった。自宅は大波止近くの電車通り沿いにあり、朝ご飯を食べた後、2階の押し入れで寝ていた。
爆風に襲われ、押し入れの壁のベニヤ板と共に部屋の端まで4メートルほど飛ばされた。瓦や割れたガラスが落ちてきたが、たまたま体にかぶさったベニヤ板に守られ、無傷で済んだ。
電車通りに出て辺りの様子を見回すと、長崎駅から北の方向は真っ黒な煙に覆われていた。突然、背中が焼けただれた牛が長崎駅の方から暴走してきた。しばらくすると、やけどをした人が同じ方向から三々五々やってきた。一人に懇願されて水と草履を渡すと、欲しがる人が続き、ある限りを配った。どの人も気の抜けた感じだった。
父は疎開用で借りた家の様子を確かめようと爆心地近くの城山地区へ向かったが、午後3時か4時ごろに引き返してきた。全身やけどの人やおなかが大きいまま亡くなった妊婦を見たらしく「地獄のようで、浦上駅から先には進めなかった」と言っていた。ただ事ではないと分かったが、悲しみは湧き上がってこなかった。感覚がまひしていたのかもしれない。
それから数日間、近くの防空壕(ごう)で過ごした。にぎり飯がもらえると聞いて向かった新興善国民学校では、校舎にけが人が入りきれず、悪臭が漂っていた。にぎり飯をもらう気にはなれなかった。
そばでは「井」の字型に組んだ木の上で遺体を火葬していた。炎の中で激しく動く遺体が生きているかのように見え、尻込みした。
玉音放送が流れた後の15日午後、陸軍がトラックで「流言飛語に惑わされるな。帝国は健在なり」という内容を拡声器で呼び掛けていたのを覚えている。この時ばかりは軍の宣伝がうそだと直感した。
<私の願い>
被爆時、両親と兄、妹が自宅にいたが、大したけがはなく、軍隊に行った兄3人も帰還した。だが、近所には家族を亡くした人が多く、大っぴらに証言するのを慎んできた。だが、被爆70年を前に、一刻も早く伝えなければという気持ちになった。あの惨劇はもう誰にも経験させたくない。