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私の被爆ノート

医者は「原爆治らない」

2014年8月8日 掲載
白石 俊一・下(86) 白石俊一さん(86) 入市被爆 =長崎市江平3丁目=

長崎市内に戻った9日。炎天下、歩き疲れて、壊れた水道管から噴き出る水を飲んだ。銭座町付近の焼け跡でぼうぜんと座りこんでいると、「じろうちゃん、じろうちゃん」と叫びながら子どもを捜す女性がいた。しばらくすると、やけどで顔が分からないほど腫れた子どもがよたよたと現れた。女性が「じろうちゃんね」と聞くと「うん」とうなずいて、すぐに息絶えた。

夕方、本石灰町の実家にたどり着いた。妹は無事だった。女子挺身(ていしん)隊として動員されていたが、9日は非番で友達の家に避難していたらしい。

翌日から救護活動に加わった。けが人を新興善国民学校に運んだり、木材を集めて死体を荼毘(だび)に付したりするのが役目。傷の手当てといっても赤チンを塗るぐらいのもの。軍人たちはけが人の体を蹴って、動いたら治療、動かなかったら死んでいると判断していた。賑橋の稲荷(いなり)神社付近でたくさんの遺体を焼いた。余燼(よじん)がくすぶる中、鬼火のように点々と燃える光景が続いた。

9月からは東京の学校に戻らないといけないが、お金も切符もなかった。国鉄の職員に「救護活動、死体の処理で20日以上頑張った」と書いた紙を手渡され「とにかくぶら下がっていけ」と言われ、汽車で長崎を出た。

東京に戻ってから、健康面で支障はなかった。しかし翌年の正月に帰省した際、原爆で救護活動をした友人たちは皆、亡くなっていた。そして同年の梅雨ごろから急に下痢が止まらなくなり、髪が抜け始めた。下北沢の病院で事情を話すと、医者は「原爆は治らない」という。死への恐怖が沸き上がった。

金になりそうな物を売って、行く当てもなく汽車に乗り、気が付くと福島県の都倉駅だった。町外れの旅館にしばらく滞在したが、意識はもうろうとし、食べても飲んでもトイレとの往復だった。旅館のおかみから「裏の久慈川の水は体にいいから」と勧められ、リハビリのように川の水を飲みにいくうちに不思議と下痢などが減り、8月末には徐々に体調が回復していった。

今でも2、3年に1度、福島県のかつて旅館があった場所に行き、感謝の意を込めて線香をたいて拝んでいる。

<私の願い>

昭和の前半はずっと戦争だった。どちらかというと日本が仕掛けた戦争。そのために多くの人が犠牲になった。一番かわいそうなのは、何も知らない幼い子が亡くなっていること。戦前、戦中、戦後と全く価値観の違う世の中を生きてきた。争い事は一切駄目。仕返しもしてはならない。

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