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私の被爆ノート

封じられた広島の車窓

2014年8月7日 掲載
白石 俊一・上(86) 白石俊一さん(86) 入市被爆 =長崎市江平3丁目=

庭に淡いピンクのサルスベリの花が咲くころ、陸軍からの通知を受けた。

「8月10日午後1時、長崎の勝山国民学校で簡閲点呼をするので出頭せよ」-。いよいよ自分も兵隊に取られるのだと思った。旧制東京農業教育専門学校1年で18歳。

8月6日に各駅停車の汽車で東京を後にした。車内は満席。遠州灘から艦砲射撃を受け、グラマンやP51の攻撃で汽車は急停車したり、トンネルの中に逃げ込んだりした。神戸を出て明石付近を通ったところでようやく座る番が回ってきた。死んだように眠っていたら、急停車と機銃掃射の音で目が覚めた。

乗客はドアや窓からなだれのように逃げ出した。だが足がしびれ、腰が抜けて動けない。ふと天井を見ると約2メートルおきに30センチほどの穴が開き、青空が見えた。床を見ると人の頭が四方に飛び散り、息絶えた母親の背中で赤ん坊が泣いていた。戻ってきた乗客は、ただ手を合わせるだけだった。

うとうとしていると憲兵らしい軍人の太い声が響いた。「窓のよろい戸を下ろせ」。腐った魚のような嫌な臭いがしたので、こっそり窓の外をのぞくと一面が焼け野原だった。次の瞬間、軍人から剣先で激しくぶたれた。後になって分かったことだが、その光景は原爆投下後の広島だった。

東京を出て3日目の早朝、長崎駅に着いた。本石灰町の実家に行くと、病弱な母は既に佐賀県太良町大浦の祖父母のところに強制疎開させられていた。兵役の前にひと目母親に会いたかった。午前9時ごろの汽車に乗ろうとしたが切符は売り切れていた。たまたま友人がいて、事情を話すと古びた切符をくれた。ぶら下がるようにして汽車に乗った。県境の佐賀県側にある肥前大浦駅についたころ、「どーん」と腹をえぐるような音がした。

祖父母の家で母親に会ったものの、実家の妹たちが心配になり、長崎に戻ることにした。諫早駅からは線路伝いをひたすら歩いた。長くて暗い長与のトンネルを出ると町が燃えていた。

大橋町付近では浦上川の水を求めてきた人が目と口を大きく開いたまま二重、三重に折り重なって息絶えていた。つえをついた老人が「水、水」と言うので水筒を口に当ててやると、そのまま枯れ木が倒れるように死んだ。開いたままの目を閉じて、家路を急いだ。

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