森岡 鶴稔
森岡 鶴稔(87)
森岡鶴稔さん(87) 爆心地から1・8キロの長崎市東北郷(当時)で被爆 =長崎市為石町=

私の被爆ノート

やけど少年 必死で救助

2014年7月31日 掲載
森岡 鶴稔
森岡 鶴稔(87) 森岡鶴稔さん(87) 爆心地から1・8キロの長崎市東北郷(当時)で被爆 =長崎市為石町=

当時18歳。長崎師範学校男子部の本科1年だった。8月9日は、三菱長崎兵器製作所の住吉トンネル工場で学徒動員中。強烈な爆風がトンネル内に吹き込んできたが、幸いにもけがはなかった。

師範学校の様子が気になり、家野郷の校舎へ。住んでいた寄宿舎は倒壊し全焼していた。しばらくすると、無傷だったり軽傷だったりする学生が集められ、救援活動を開始。道ノ尾駅までけが人を搬送する作業に加わった。

同駅にたどり着くまでの光景は、言葉にできないほどの悲惨さだった。顔が黒ずんで膨れ上がった母親が、子どもにお乳を飲ませている姿は目に焼きついている。駅のホームは、運ばれてきた負傷者で足の踏み場もない。全裸に近い状態の女学生も横たえられており、羞恥心を感じる気力もない様子が無残だった。

やけどの痛みに耐えかねたのか、10代くらいの少年が駅の近くにあった用水路に飛び込んだ。おぼれるととっさに判断し、助けようと私も飛び込んで少年の手を引っ張ったが、その手の皮がむけてしまった。それでも夢中で引き上げた。少年がどうなったかは分からない。救援活動に追われ、一人に構ってはいられなかった。

11日には避難所になっている家野郷の防空壕(ごう)から長与国民学校の避難所まで、4人一組でやけどの同級生を戸板で運んだ。患部にうじ虫がわいた状態。背中の傷口がうんでいたため、戸板に敷いた綿が張り付き、少しでも傾くと痛みで悲鳴を上げていた。

その後、教官が帰宅許可を出した。長与から線路伝いに実家のある西彼川原村本郷(現在の長崎市川原町)まで歩いて帰った。自宅待機中、地元出身の女学生が被爆後に髪が抜け、歯茎から血が止まらなかったという話を聞いた。自分もいつかそうなるのだろうかと恐ろしさを感じた。

<私の願い>

戦争だけは二度とあってはならない。被爆者以外にも空襲で家を焼かれた人、外地に行った人などたくさんの犠牲者を出した。被爆しながらも無傷だったことは天の恵みだと思う。負傷した人や亡くなった学友のために、死ぬまで世界恒久平和を願っていきたい。とにかく平和でありたい。

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