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私の被爆ノート

強烈な遺体焼くにおい

2014年7月17日 掲載
柳迫美代子(77) 柳迫美代子さん(77) 入市被爆 =長崎市八幡町=

” 母は幼いころ亡くなり、長崎市の伊良林に父と2人で暮らしていた。当時、伊良林国民学校の3年生で8歳。

あの日はたまたま、食料などを調達するため、父と諫早市内のいとこの家にいた。庭で同い年のいとこと遊んでいた午前11時2分。突然、空が暗くなった。不思議に思って見上げると、青かったはずの空が次第に黒っぽくなり、やがて不気味に赤みがかっていった。

それを近くで見ていた父や近所の人たちは「長崎に新型爆弾が落ちた」「長崎はもう全滅だ」と口々に話した。すぐに長崎市内に戻るため、父と列車に乗った。しかし、道ノ尾駅で降ろされてしまった。

父は「様子を見てくるから、ここにいなさい」と言って、止まっていた列車に私を乗せた。中には数人のけが人がいた。ある女性は赤ん坊を抱いて座り込み、おっぱいを飲ませていた。目はうつろで、頭から流れた血が顔を赤く染め、すすけた着物は所々が焼け落ちていた。しばらく見ていたが、赤ん坊はぴくりとも動かなかった。当時は不思議に思ったが、今考えると、すでに赤ん坊は亡くなっていたのだろう。

少したつと、父が戻ってきて、自宅に向かうことになった。焼け野原になったがれきの街を線路沿いにひたすら歩いた。路面電車の線路の枕木はちょろちょろと燃え、至る所に黒焦げの死体が転がっていた。水路には水を求めた人たちが頭を突っ込み、折り重なって死んでいた。ただただ怖く、父の手を強く握り締めて歩いた。

夕方ごろ伊良林に着いた。家具は倒れていたが、家は無事だった。その日はすぐに眠り込んだ。

数日後、父が遺体の収集に駆り出され、付いていった。大八車で次々と運ばれる黒焦げの遺体は、焼かれると何とも言えない強烈なにおいを放った。そのにおいは69年後の今も鼻の奥にこびり付いている。

【編注】柳迫美代子の柳は木ヘンに却の去が夕
<私の願い>

水を求めて折り重なる人や黒焦げの死体がごろごろと転がるような悲惨な光景を、子どもや孫など今からを生きる世代の人たちには絶対に見てほしくない。安倍晋三首相が進める、集団的自衛権の行使は絶対に容認してはいけない。戦争のない平和な世界こそが、何よりも大事なことだと思う。”

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