あの瞬間、職場の三菱重工長崎造船所敷地内にある建物のロビーにいた。突然白く光り、すぐに爆音が鳴った。10人ほどが、さっとかがんだ。
立ち上がるとすぐ突風が吹いた。「何が起きたの」。心配になり持ち場に戻ると、書類や弁当などすべてが吹き飛ばされていた。
20歳だった。自宅は長崎市引地町(現・興善町)で、当時は疎開先の諫早市小長井町の母の実家から列車通勤していた。その日はあちこちで発生した火災のため、実家には帰れなかった。
職場から2キロの高台にある同僚宅に泊めてもらうことになった。窓から見渡すと街は炎で赤く染まっていた。そこから自宅が燃えているのが見えた。家族はみな諫早に疎開していたが涙が出た。
翌朝、同僚の家族に礼を告げて外へ出た。頭巾をかぶり、母が作ってくれたマスクを着けた。うだるように暑かった。
長崎駅まで歩いた。着くと長い列ができていて列車にいつ乗れるのか分からなかったため、覚悟を決め、諫早を目指して線路を歩き始めた。ほかにもけがを負った人たちが列をなしてゆっくりと歩いていた。前を歩く男性は尻が焼けただれていた。途中、子ども同士が抱き合うような姿で黒く焼け焦げていた。怖くて目をそらした。
「ケイコ」「テルコ」-。娘を捜す男の人の声が聞こえた。病で床に伏している諫早の父が私を呼んでいるような気がして、一刻も早く帰らなくては、と思った。
長与駅まで歩くと、運よく列車が着いていたので乗り込んで、小長井駅に向かった。
ようやく駅に着くと母がホームにいた。列車が来るたびに迎えに来ていたのだろう。「お母さん」。大声で叫んだ。母は私を見つけると駆け寄って抱き締めた。泣いてはいけないと思い、母を見つめて笑った。
【編注】吉川〓子のさんの〓はサンズイに貞
<私の願い>
これまで家族以外に被爆体験を語らなかった。諫早市には救護被爆者が多く、逃げただけの私が語るのはおこがましいと思っていた。でも被爆者が高齢化し、語る時期に来たと感じている。若い人の中には戦争を肯定する人がいると聞くが、戦争は人殺し。当時を思い返しても、何もいいことはなかった。