1945年8月9日はわが家が大黒柱を失った痛恨の一日だった。
13歳の私は県立瓊浦中(竹の久保町)の生徒で、学徒動員されて三菱長崎製鋼所(茂里町)で働いていた。あの日は朝から警戒警報が出たので、秋月町の自宅で友人と遊んでいた。ラジオから空襲警報発令の情報が流れ、表に顔を出すと飛行機の音が聞こえた。
裏手の防空壕(ごう)へ逃げようとすると何かが爆発した。家の中で、とっさに目と耳をふさいで伏せる防御姿勢を取った。猛烈な爆風が吹き、家具の上に置いていた家中の物入れの空き缶が踊るように跳ねた。
家は屋根がずれて空が見えていたが、私も、母と祖母も無事だった。外に出ると浦上の辺りが真っ黒な煙に覆われていた。母は「お父さんは駄目ばい」とつぶやいた。52歳の父は全壊した三菱長崎造船所幸町工場で工場長として働いていた。
数日後、叔母が「お父さんは助かった」と言ってきた。生きている父を見かけた人がいるという。うれし泣きしたのもつかの間、父は1週間たっても帰ってこない。原爆で亡くなった人の遺体が家の近くでも焼かれるようになり、嫌なにおいが鼻を突いた。
母はとうとう父を捜しに出掛けた。会社から「出先の工場で被爆したらしい」と説明を受け、幸町工場から100メートルほど離れた出先の焼け跡に行くと、50ばかり白骨体が転がっていた。これが父と目星を付けた骨を、鉄かぶとに入れて持ち帰った。
しばらくすると母の夢に父が出てきて「あの骨はおれじゃない。仕方ないが祭っておけ」と言ったという。父がいない暮らしは急速に傾いた。母は山を越えて小江まで歩き、衣類の行商をした。半日歩き通して帰って来ると、私に足をもんでくれと頼んだ。疲れ果てた母を見るたびに「父が生きていてくれたら」との思いが胸に込み上げてきた。
<私の願い>
真面目な級友たちは登校して死んでしまった。今も彼らの顔が目に浮かび、生き残った私は申し訳なく思う。当時は何の情報もなく、私は竹やりで米軍に勝つと思い込んでいた。再びあのような国になってはいけない。平和運動に参加したことはないが、原爆や戦争には絶対に反対だ。