長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

線路周りの光景一変

2014年6月19日 掲載
宇木 和美(81) 宇木和美さん(81) 爆心地から4・2キロの長崎市大浦下町(当時)の自宅で被爆 =長崎市風頭町=

当時12歳。県立高等女学校の生徒だった。父は熊本に出張中、母ときょうだいは島原に疎開していたので、長崎市大浦下町の自宅には下宿していた同級生のまたいとこと2人きりだった。

登校日だったが空襲警報が鳴ったので、すぐに帰された。自宅の2階で、またいとこといると、急に窓の外が真っ白になり、爆風が家の中に吹き込んだ。ガラスが割れ、家具も吹き飛ばされた。

しばらくして2人で家の外に出た。近所の人たちが大浦川沿いに集まっていたので、自分たちもそこで夜を明かした。

10日午後、熊本から駆けつけた父と再会。家族のいる島原に向かうことにしたが、列車は道ノ尾駅からしか出ていない。諫早の実家に帰るまたいとこと3人で長崎駅から線路沿いを歩いた。

線路の周りの光景は様変わりしていた。炭のかたまりのような黒焦げの死体が、あちこちに倒れていた。小さな子どももいたが、かわいそうと思う余裕もなく、ただただ怖くて、歩き続けた。

東諫早駅で島原行きの列車を待つ間、大やけどを負った女性がホームに寝かされていた。やけどにうじが湧き、苦しそうにうめいていた。助けてやりたいが、どうすることもできない。女性は先に列車に載せられたが、その後どうなったのかずっと気になっている。

終戦後、学校が再開してすぐ、講堂で原爆の犠牲になった生徒や先生の慰霊祭があった。壇上に並んだ死没者の写真を見て、あまりの多さにがくぜんとした。優しかった担任の先生や仲良しだった友達の死も、そのとき初めて知った。

戦後は、被爆体験について思い出すまいとしてきたが、線路沿いで見た光景を夢に見ることがある。黒焦げになって死んでいった人々のことを思うとやりきれない。生きているうちに自分が見たことや経験したことを後世に伝えなくては、と今は考えている。

<私の願い>

原爆は、人々のささやかな幸せを根こそぎ奪ってしまう。生きたくても生きられなかった人たちのために残された私たちは命を大切にしなくてはならない。安倍晋三首相は「強い日本」を目指しているようだが、「命」を考えの中心に置き、軍備ではなく対話による外交政策を進めてほしい。

ページ上部へ