17歳のころ、学徒報国隊として三菱兵器製作所大橋工場で魚雷を作っていた。あの日はとても暑く、上半身裸で魚雷に触ろうとした瞬間、目がくらむような閃光(せんこう)が走った。それしか覚えていない。
数時間は気絶していただろう。背中が激しく痛み、大きな声で助けを呼ぶが誰も来ない。一度黙ってみると、辺りは驚くほど静かだった。どうにか足は動かすことができ、やっと立ち上がって目にしたのは、廃虚と化した工場。以前、物理の先生が話していた原子爆弾だと無意識に思った。
自然と足は工場指定の避難所だった雑木の山を目指していた。途中、皮膚が垂れ下がり、幽霊のような人々とすれ違った。この世のものとは思えなかった。
避難所にたどり着き、腹ばいになって倒れ込んだ。だが、負傷した背中に山アリが寄ってきたので、あぐらをかいて座り込んだ。背中の痛みがすさまじく、隣にいた海軍の工作兵に背中の状態を聞くと「熟れたザクロのよう。重傷だ」と言う。ここで死ぬのかと思った。はいていた3尺ふんどしを工作兵に破って巻いてもらい、出血を抑えることができた。
しばらくして、捜しに来てくれた同僚の永田と再会。彼は軽症のようで、雑木の山を一緒に下り、汽車で大村市の海軍病院に連れて行ってくれた。病院で医者が「水を飲んでよろしー」と掛け声を上げたため、永田は拾った容器に水をくんできてくれた。被爆後初めて飲む水だった。その後、背中に刺さったガラス片を、消毒液を付けた布を当てて下にずらしながら取り除く荒療治を受けた。
終戦後も原爆の後遺症との闘いは続いた。被爆時に胸を強く打っており、肺を患い2度死にかけた。入退院を繰り返しながら郵便局に勤めたが、被爆者、障害者というだけで普通以下の扱いを受けた。原爆への怒りは今も消えない。
<私の願い>
核廃絶のため座り込みなど活動をしてくださる方々への感謝の気持ちと、私自身、身体の調子が悪く参加できない申し訳なさがある。生きている被爆した人の数も減っているが、核の脅威は後世に必ず伝えていかなければならない。運動が永続的に行われ、核廃絶が実現することを願っている。