家は代々続く水神神社。14歳の私は境内にある社務所に父母、姉2人、台湾からの留学で下宿していた医学生の男性と暮らしていた。
あの日、学校は休みで自宅にいた。警戒警報が聞こえ、玄関を飛び出して空を見上げた。飛行機が急に爆音をうならせ、すごい速さで飛び去っていく音。真っ白な閃光(せんこう)が走った次の瞬間、すさまじい爆風に襲われた。気づいたら家の中で倒れていた。吹き飛ばされたのだろうか。窓ガラスが割れていたが、けがはなかった。
爆心地に近い長崎医科大で働いていた次姉が夜になっても戻らず、父らが捜しに向かった。待つ間、近くの蛍茶屋電停まで様子を見に行った。負傷者が集団で矢上方角へ通り過ぎていく。だらりと垂れ下がった目玉を手のひらで支えている初老の男性や、上半身がほぼ裸で顔の皮膚がむけた女性-。怖くて、地獄絵を見る思いがした。
次姉は翌日、金比羅山の中腹辺りで見つかった。体の片側いっぱいにガラス片を浴び、全身が血で真っ黒。瀕死(ひんし)の状態だったが、下宿の医学生が同大の焼け跡から包帯や赤チンなどを掘り起こしてきて、手当てしてくれた。ガラス片や湧いたうじを麻酔もかけず取り除く処置。悲鳴一つ上げず耐えたという。数日して髪の毛が抜け始めたが、ブドウ糖注射などの効果か全て抜けるということはなかった。
次姉は回復後、県庁に勤め、結婚。2007年に亡くなるまでガラス片が体に残り、肌の出る半袖の服を着なかった。あまりに無残な光景を見たのだろう。被爆の記憶を生涯語ろうとしなかった。
11日には、松山町の伯母を捜しに出た。あちこちに積み上げられた遺体が燃やされている。伯母宅は燃えかすすらない。伯母らしき遺体を見つけ、材木を集めて母と火葬した。あれが新型爆弾だと知ったのは終戦後のことだった。
<私の願い>
日本はまた戦争に近づいているようだ。現実にその悲惨さを味わっている人間として、二度と繰り返してほしくない。これから先の戦争が行き着く先は原爆しかない。原爆はたとえ死を免れても、地獄絵みたいな状況が続く。直接被爆して生々しいことを知っている人の話を聞くことが大事だ。