当時7歳で、佐古国民学校2年。母親は朝から買い出しに行き、3歳の弟と家で遊んでいた。
天井からつるしたざるには、さらしで包んだご飯が入っていた。「お昼はこれを食べなさい」と言われていて、おなかがすいていたので「早くお昼にならないかな」と、ざるばかり眺めていた。
突然、窓の外から閃光(せんこう)が走り、爆風で家が揺れた。とっさに「伏せ」と言って、弟に覆いかぶさった。
何が何だか分からないまま周りを見ると、土壁が崩れ落ち、柱は傾き、窓ガラスが割れていた。食器棚は倒れ、ちゃぶ台も吹き飛ばされていた。部屋の中は無残な姿に変わり果て、家は半壊状態だった。けがはなかったが、言葉で表せないほどの恐怖心。つるしていたご飯も落ちて泥やガラス片にまみれていた。子ども心に悲しかった。
弟の手を引き、近くの大徳寺の防空壕(ごう)に避難した。天井から水滴がしたたり、たくさんの蚊が湧いていた。あちこちを刺され、弟と小さい体を寄せ合い、無言で過ごした。壕は大きかったので、やけどやけがをした人が大勢いたと思うが、覚えていない。
夕方、母親が迎えに来てくれた時には安心して大泣きした。母親はひどいけがをした人をたくさん見て、「どこにいても同じ。覚悟を決めなくては」と思ったという。
その日は半壊状態の家に帰った。夜になると、県庁や長崎駅方面の空が真っ赤になっているのが見えた。火事になって燃えていたのだろう。あの光景が忘れられない。その後しばらくは近くの墓地に避難して、蚊帳をつり、両親ときょうだい4人で野宿をして暮らした。
70歳を迎えたころ、被爆者歌う会「ひまわり」に入った。歌は趣味の一つだったが、世界に働きかける「平和運動」という喜びに変わった。健康に留意しながら、残りの人生を「ひまわり」にささげたい。
<私の願い>
不戦を誓う憲法9条を無視して、歴史が繰り返される感じがする。目には見えないが平和運動に携わる市民として、そう感じられるのが怖い。今すぐそうなるとは思わないが原爆や戦争の悲惨さを知る人がいなくなる時が危ない。子どもや孫につらい思いをさせたくない。平和な世界を願っている。