小家松ヨシ子
小家松ヨシ子(86)
小家松ヨシ子さん(86) 大村市で救護被爆 =大村市桜馬場1丁目=

私の被爆ノート

やけどした子 何十人も

2014年5月15日 掲載
小家松ヨシ子
小家松ヨシ子(86) 小家松ヨシ子さん(86) 大村市で救護被爆 =大村市桜馬場1丁目=

1945年4月から、現在の県立大村城南高(大村市久原1丁目)の場所にあった長崎師範学校女子部へ進学する予定だった。しかし、学徒動員で働いていた市内の第21海軍航空廠(しょう)での仕事が続き、実際に入学できたのは8月1日だった。17歳だった。

入って間もない9日。高台の校舎2階で家庭科の授業中、「ドーン」と音がして、ガラスががたがた揺れた気がする。退避命令が出たので慌てて廊下へ出て、階段を駆け降り、校舎下の斜面に掘ってあった防空壕(ごう)へ逃げた。何が起きたのか分からなかった。

翌日、校内の寄宿舎にある「明鏡室」という畳の部屋に、長崎市で被爆し汽車で運ばれてきたという長崎師範学校男子部(同市)の14~15歳の子が何十人も裸にパンツ姿で寝かされていた。多くは腹ばいで、みんな痛いのをこらえているようだった。

看病することになったが、背中などをあちこちやけどしていて、手で触りきれなかった。おしっこをしたい子がいたら、体の下に帯のような布を通し、両脇から2人で持ち上げて腰を浮かせ、ビール瓶の中にさせた。

片町にあった校医の西川病院に、おんぶやリヤカーで送迎もした。みんな年下で、かわいくもあり「おうちの人が心配しとるやろうね」と話し掛けたりした。

看病は10日間から2週間ほど続いた。その間、1日だけ、現在のJR岩松駅付近に汽車で運ばれた被爆者を、高台の大村海軍病院(現・国立病院機構長崎医療センター)へ運ぶことになった。やけどした大人が多く、ぐったりして、しゃべりもしなかった。同級生が4人一組になり、1人ずつ担架で運び、2往復ほどした。早く連れて行こうと、もくもくと歩いた。

多くの被爆者を見たとき、恐くて、国が滅びるんじゃないかと子ども心に思ったものだ。彼らは今ごろどうしているのだろう。

<私の願い>

戦争を経験していない人は、戦争してもいいと思うかもしれないが、絶対に駄目。勝っても負けても、物資はなくなるし、ろくなことにならない。各国が我を通さず、相手の良さを知り、助け合い、引いたりして、仲良くしないといけない。平和教育をしっかりやっていくことも大切だと思う。

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