井上 幸雄
井上 幸雄(82)
井上幸雄さん(82) 爆心地から2・5キロの長崎市東上町で被爆 =長崎市上小島4丁目=

私の被爆ノート

自宅狙われたと錯誤

2014年5月8日 掲載
井上 幸雄
井上 幸雄(82) 井上幸雄さん(82) 爆心地から2・5キロの長崎市東上町で被爆 =長崎市上小島4丁目=

その瞬間、フラッシュが100も200も一斉に点灯したような光に襲われ、自宅が狙われたと錯覚。脳みそがすっ飛んだかと思った。

旧制県立長崎中2年。学校に軍事品の部品を作る工場が設けられ、工場の配線工事を手伝っていた。広島に新型爆弾が落とされたことは友人に聞いていた。父親はシンガポールに出征中だった。

8月9日は午後からの出番だったので、午前は家でごろ寝し、夢うつつだった。「ブーン」。特攻機が1~2機飛んでいるなと思った直後-。

猛烈な爆風で家がぐらんぐらん揺れた。動いたら危ないと直感し、浮き上がろうとする畳をあおむけのまま必死に手で押さえた。途端に頭に衝撃を感じた。

気が付くと、穴の開いた天井から砂煙でくすんだ空が見えた。生きた心地がしなかった。

同じ部屋にいた母親は割れた窓ガラスで首と腕から出血。自分でガラスを抜き止血した。母親に避難しなさいと言われ、弟2人と妹を連れ、そばの川に身を潜めた。橋の上を大勢の人が逃げており、被害の大きさから新型爆弾だと思った。自宅近くの県立図書館下にあった防空壕(ごう)に向かったが、すでにすし詰め。「僕たちが掘った防空壕なのに」と大人に言うと、「後から来て何ば言うか」と怒鳴られた。

長崎駅の方から火の手が迫り、泣きだした妹を自宅にいた母親へ預けた。2人の弟と一緒に、諏訪神社の辺りを通り、寺町に逃げた。途中、血を流した赤ちゃんを抱えた女性や、独りぼっちでぼうぜんと立ち尽くす小学生くらいの男児などが目に入ったが、構う余裕はなかった。

寺町のお寺で母親らと再会。境内から市街地を見渡すと、県庁周辺が炎に包まれていた。

戦後、中学の国語教諭になった。あの惨状を模造紙に描き、約30年前から生徒らに伝えている。

<私の願い>

小学時代は中国・武漢と長崎で過ごした。長崎の友達はみんな亡くなったが、武漢の友達は全員健在。64歳の時に腎臓がんを患ったのも被爆のせいだろう。 今もって核兵器が存在し、歯がゆい限り。原爆が使われたら、市民が皆殺しになり、町が破壊される現実を訴え続けたい。

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