当時25歳。2歳になる長女の母親だった。あの日の夕方、原爆の負傷者を乗せた列車が諫早駅に着くと、自治会長から招集された。すぐに長女を祖母に預けて、けが人が運ばれる旧制諫早中(現在の県立諫早高)へ向かった。
走りながら目に飛び込んできたのは、リヤカーに無残に積み重ねられた遺体。若者は戦地に行っていたため、60代以上の男性らが血だらけのけが人を担いで歩いていた。
諫早中の講堂に着くと、既に数百人の負傷者が運び込まれていた。今まで嗅いだことがない焼けたような異様なにおいが充満していた。床に横たわる負傷者はみな全身をやけどしていた。服や髪は縮れていた。
「母ちゃん」。背後から幼女のか細い声が聞こえて振り向いた。幼女は裸に近い状態で立ち、横になった母親の腹部にすがりつこうとしていた。だがやけどを負った母親は痛みに耐えかねたのか、わが子を払いのけていた。
母親になりたての私には信じられない光景だった。戦争の残酷さを目の当たりにし、やるせなくなった。
おにぎりを作り、軽傷者の口に入れた。しかし、なかなか食べない。「一口だけでも食べて」と繰り返すと、逆に「水を」と求められた。水道まで行ったが、そこには遺体がかぶさっていた。怖くて近づけなかった。
10歳ほどの少年の耳からはうじ虫がわき、朝鮮人の男性は腸が10センチほど傷口から飛び出ていた。
夜になって看護師が来たので家に帰された。夕飯は喉を通らなかった。死者のにおいがこびり付いた服を着たまま床に伏した。講堂の光景が頭から離れず、眠れぬまま夜が明けた。
翌日。学校に行くと負傷者は教室に移っていた。うじ虫がわいた少年も腸の出た朝鮮人も見当たらず、また違う負傷者でいっぱいになっていた。
<私の願い>
大好きな人との間に生まれた子どもや孫と一緒に暮らす今は、本当に幸せ。しかし一度でも戦争中に見た光景を忘れたことはない。食べ物はなく、家族が戦死することは正義だと信じていた。子どもたちには、どんな時代も、何があっても戦争は正しくはないということを伝えたい。