長崎市岡町で母と養父の3人暮らし。19歳で、愛宕町の玉木高等実践女学校の教師として働いていた。
あの日は日直当番で、職員室で1人、過ごしていた。突然、窓から閃光(せんこう)が差し込んだ。反射的に耳をふさぎ、叫びながら机の下に伏せた。窓ガラスが割れ、破片が飛び散った。
しばらく失っていた意識が戻り、自宅に行こうと坂道を下っていると、数十人の男女が上ってくる。髪は焼けてさび付いた針金のように見えた。胸や背には衣服の切れ端がぶら下がっていた。
全身にやけどを負った男性に呼び止められた。「どこに行くのですか。長崎駅方面から向こうは火の海ですよ」。私がかすれた声で「浦上の自宅に帰りたいんです」と言うと、男性は首を大きく左右に振った。
昼すぎ。市役所近くの叔父宅に立ち寄った後、徒歩で自宅を目指した。防火水槽の水で防空頭巾を何度もぬらしたが、暑さですぐに乾いた。
午後4時ごろ、浦上天主堂にたどり着いた。自宅方向に火の海が広がっており、ぼうぜんと眺めるしかなかった。夜は、西山まで戻って竹やぶに隠れて過ごした。空腹と喉の渇きに気付き、生きていることをかみしめた。
翌日から、爆心地周辺で母を捜し歩いた。地面はむき出しで、家屋はかけらもなかった。畑に無数の死体が転がり、多くは男女の違いも分からない。黒焦げの骨もあった。それから数日、救護所を巡った。養父は無事だったが、母の行方は分からなかった。
終戦の詔勅が放送された15日。時津国民学校で、死亡者名簿に母の名を見つけた。その日は母の53回目の誕生日だった。
遺骨代わりに母が愛用していた大島紬(つむぎ)を埋葬すると、張り詰めていた力が抜けていった。空に浮かんでいた白い雲は、寂しそうに涙をたたえる母のように見えた。
<私の願い>
国が違えば、文化や民族、宗教が違うのは当然。違いを認め合い、理解しあうことが必要だと思う。文化交流を気長に続けるよう努力してほしい。国と国の関係が悪くなっても、話し合いをする機会を積極的につくらないといけない。核兵器を持ったり使ったりすることは二度としないでほしい。