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私の被爆ノート

体中に焼け付く熱さ

2014年4月10日 掲載
西村 勇(80) 西村勇さん(80) 爆心地から6・0キロの長与町平木場郷で被爆 =西彼長与町三根郷=

洗切国民学校(現在の西彼長与町立洗切小)の6年生だった。あの日は、学校の畑で収穫した小麦を、グラウンドで先生やみんなと一緒に干していた。

空襲警報が鳴り、みんなで体育道具小屋の陰に隠れた。「あそこにB29が」「どこやどこや」。長崎方向の雲の切れ間に爆撃機が見えた。「落下傘が落ちたぞ」。目のくらむ光が走った。

シャツ1枚の体中に焼け付くような熱さを感じ、私はバタバタとたたいた。みんなに「逃げろ」と声を掛け、校舎裏へ駆け込むと猛烈な爆風が来た。先生に向かって、もう一人の先生が「ご真影!」と叫び、先生は校舎から天皇陛下の写真を抱いて持ち出した。

2年生の妹は校舎の中で逃げ遅れ、割れたガラスで手の甲を切り、泣いていた。私は妹の手を引いて裏山に避難した。長崎方向に真っ黒な煙がもうもうと立ち、こちらへ来る。「長崎が爆撃されたんだな」と推測したが、きのこ雲は見えず、原爆などとは思いも寄らなかった。

家に帰ると建具はみな倒れ、すすだらけ。祖母から、畑にいる父と母を呼んでこいと命じられ、鉄道線路に上って走った。父母は無事だったが、帰り道、服がぼろぼろの人たちが川平を徒歩で越えてくるのを見た。

午後、焼けただれた被災者を運ぶ列車も見た。客車、貨物車、デッキでぐったりと動かない姿-。亡くなっていた人もいたのではないか。今も目に焼きついている

14日、兄が同僚を捜しに行くというので、一緒に長崎駅まで歩いた。建物がほとんどない。牛や馬が倒れて腐敗している。「片足鳥居」がぽつんと見えた。農家の人だったのか、牛に台車を引かせて廃虚の便所跡から肥をくんでいた光景を覚えている。誰がどこにいるか分かる状況ではなく、兄の同僚を捜すのはあきらめた。

<私の願い>

被爆者として、当時のことは死ぬまで忘れることができない。時代とともに、核に対する意識が薄くなっていくことが恐ろしい。われわれが見たことを若い人に語り継ぎ、次代も、より強力に核廃絶を世界へ呼び掛けていってもらいたい。自分も命ある限り、活動に参画していきたいと思っている。

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