当時14歳で、長崎市東山手町の旧制海星中2年。友人と学校の防空壕(ごう)を掘っていたが、警戒警報が鳴ったので今のうちに香焼島の自宅に帰ろうと、午前11時に元船町を出発する3階建ての船「川工丸」に飛び乗った。船が動きだしてすぐ閃光(せんこう)が走り、目がくらんだ。大きく揺れ、気が付くと周りの人は爆風に飛ばされていなくなっていた。
市街地は土煙で真っ白だった。やがてきのこ雲が立ち上っているのが見えた。船内では、顔や体にガラス片が突き刺さった人などもおり、恐ろしい光景。グラバー邸下の桟橋で船を下り、長崎要塞(ようさい)司令部(現在の長崎地方気象台)近くの防空壕に逃げた。苦しそうなうめき声や叫び声が響いていたが、かわいそうなどと感じる余裕はなく、ぼうぜんとしていた。壕から出て、燃え盛る市街地を見ると、死体を積んだトラックが何台も走っていくのが見えた。
米軍機が上空を飛んでいた。夕方、香焼島の自宅に戻った。母、弟、2人の妹が無事でほっとした。佐賀にいた父は、爆心地近くを歩いて、香焼に翌日帰宅した。3歳上の姉は翌日から爆心地周辺で救援活動をした。
8月25日ごろ、もともとの実家である福岡県柳川市に戻るため長崎駅から汽車に乗ったが、駅周辺や沿線で死体を焼いており、その光景とにおいを忘れることはできない。実家で父は急に高熱を出し、原因不明のまま10月に53歳で亡くなった。姉は頭髪が抜けるなど長く原爆症に苦しみ、2010年に亡くなった。
私は16歳のとき高熱が出て、右脚全体が丸太のように膨れ上がった。医師には「放射線でやられたのではないか」と言われた。3度の手術で右脚のひざ下に大きな傷痕が残っている。若いころは被爆者差別が公然とあり、被爆者であることを極力隠して生きてきた。
<私の願い>
最近の憲法改正論議を見ると、この国の行く末が非常に心配だ。戦争は決して繰り返さないとの思いから、地元の小学校で被爆体験を話しており、子どもたちは真剣に聞いてくれる。被爆者や戦争体験者の中には思い出したくない人もいるだろうが、自らの経験を子どもたちに伝えてほしい。