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私の被爆ノート

爆心地の悪夢にうなされ

2014年3月27日 掲載
山下和雄(74) 山下和雄さん(74) 爆心地から3・3キロの長崎市鳴滝町で被爆 =長崎市桜馬場2丁目=

当時5歳。幼くて戦争をしていることすら理解していなかった。長崎市鳴滝町の木造長屋で父の友市、三つ下の妹安子といたとき、窓から閃光(せんこう)が差し込んだ。目がくらみ、爆風で壁に打ち付けられた。

父は、私と妹を両脇に抱え、押し入れに身を隠した。辺りが静まると200メートルほど離れた防空壕(ごう)に避難。壕は施錠してあったが、父は体当たりして扉を破った。L字形の壕内は湿気で蒸し暑く、カビの臭いがしたのを覚えている。

壕はすぐに、避難者や負傷者でいっぱいになった。川で洗濯していたはずの身重の母たまが入ってきた時は、うれしかった。重苦しい雰囲気の壕内で2日間ほどを、母に抱きついたりしながら過ごした。

11日早朝、父の実家がある外海村へ向かった。道中、黒焦げの電車内に座ったままの焼死体が3、4体あるのを見た。「なんで人が炭のように真っ黒に焼けているのかな」。怖くて泣いた。

爆心地周辺では、死体の山を目にした。おなかが膨らんだ馬や牛も折り重なって死んでいた。はだしでもんぺ姿の30~40代の女の人が鬼気迫る表情で駆け寄ってきた。「私の子どもを見ませんでしたか」。壊れかけた民家には、全身に包帯を巻いて目だけがきょろきょろと動くミイラのような負傷者が何人もいた。強烈な臭いとうめき声が恐ろしく、その場にいられなかった。

12日早朝、ようやく外海の美しい海岸が見え、安心感が広がった。外海で2、3カ月を過ごし、その後、鳴滝に戻り、伊良林国民学校に入学。だが、爆心地周辺で見た地獄絵図は鮮明な記憶として刻まれ、小学生のころは悪夢を見て、よくうなされた。

両親は私が社会人になるまで、被爆した体験を語らなかった。被爆者差別から私を守るための心遣いだったのかもしれない。

<私の願い>

戦争を知らない世代が多い中、昨今、憲法改正の動きや特定秘密保護法成立など平和を脅かす危険な国策が進められている気がする。私は原爆投下後の地獄絵図が今でも目に焼き付いており、思い返すたび、戦争の愚かさを痛感する。そして平和な社会の実現には核兵器の早期廃絶以外にありえない。

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