当時12歳で、西浦上国民学校の6年生。3年の時から毎朝、登校前に新聞配達をするのが日課だった。
あの日は空襲などの影響で、新聞を積んだ汽車が遅れていた。午前11時前に道ノ尾駅に汽車が到着し、私は駅の横の滑石町の販売所から配達に出掛けようとしていた。外に出るとB29が上空を飛んでいた。
「早く中に入れ」。販売所のおじさんに言われた瞬間、オレンジや黄色の稲妻に似た光に襲われた。私は目と耳を押さえてその場に伏せた。
どれくらい時間がたったのか分からない。ふと周囲を見渡すと、販売所内の作業台にガラス片が手裏剣のように刺さっていた。
小高い松林に逃げ込んだ。しばらくすると、近くの鉄工所で機関銃の弾を作っていた女子挺身(ていしん)隊の何人もが頭から血を流し、「お母さん」と泣きながら登ってきた。
私は家族のことが気になり、町内の実家に向かった。家はガラスの破片が散乱しており、誰もいなかった。防空壕(ごう)にいるのだろうと思い、向かった。母親は壕にいたが、弟が上半身にやけどを負って「熱い熱い」と苦しんでいた。
翌朝、壕の外に出てみると、男の人が上半身を真っ赤にして皮膚をだらんと垂らし、髪を逆立てて「うらめしか」と叫んでいた。私は怖くなって、すぐに壕の中に逃げ込んだことを覚えている。
近所の元軍医宅は、けが人であふれ返っていた。軍医の娘も負傷者の体からガラス片を抜くなどして手伝っていた。おかみさんは自分や娘のきれいな浴衣を裂き、包帯として負傷者に巻いていた。
やけどした弟は助かった。しかし、茂里町の三菱長崎製鋼所に勤めていた六つ年上の兄の行方が分からなくなり、遺体は見つからなかった。
<私の願い>
あの日の記憶だけは、今でも鮮明に覚えている。原爆で多くの同級生が亡くなった。毎年慰霊祭に参加しているが、みんな年々高齢化し、いつまで行けるのだろうと思う。各国が競争するように核兵器を造っているが、すべてを破壊してしまうもの。造るべきでも使うべきでもない。