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私の被爆ノート

防空壕回り生徒捜す

2014年2月27日 掲載
塚原 末子(90) 塚原末子さん(90) 爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆 =長崎市油木町=

1944年10月から県立長崎高等女学校に教員として赴任。翌年4月から、動員学徒の4年生の引率で三菱長崎兵器製作所茂里町工場に通っていた。8月9日も、いつも通り工場にいた。

工場の2階にある教員の詰め所。午前11時ごろから工場内を見回ることになっていた。同僚から声を掛けられて立ち上がった時、窓の外に濃いピンク色の空が広がっているのを見たように記憶している。とっさに机の下に潜り込んだ。

目と耳を手でふさいだが、強烈な光と音、地響きを感じた。「これが同僚が言っていた新型爆弾か」。何分何秒たったか分からないが、気が付くと、飛ぶように階段を駆け降り、非常時に入ることになっていた防空壕(ごう)を目指した。途中、大きな鍛造工場がつぶれているのが見えた。金属の枠だけが残った鉄道車両のそばには、たくさんの死体が横たわっていた。「助けて」という叫び声も聞こえたが、足は止まらなかった。

銭座町の聖徳寺下の防空壕に着くと、生徒らを捜し、一人一人顔をのぞいて回った。1人、見覚えのある人が黄色い物を吐きながら横たわっていたが、私はおろおろして「もうすぐ助けが来るから」と言うのが精いっぱいだった。

ある壕では医大生らしき人に出会った。大きく破れたシャツが背中に見えたが、目をこらすと皮膚だった。その後も、幾つか壕をのぞいて回ったが、生徒はいなかった。

生徒が見つからないまま工場に引き返した。事務所の人から乾パンを一袋受け取った。昼食の意味だったのだろう。再び外に出て、横たわる人々に乾パンを一つずつ分け与えた。全身血だらけで食べられるはずもない人にもあげた。私は放心状態だった。「いらない、水をくれ」と言う人もいたが、水を探すような余裕はなかった。

<私の願い>

戦争は絶対にしてはいけない。大切な人を亡くされた方はもちろん、経験者全員が苦労して生きてきた。原爆は自国の捕虜をも一瞬で殺した恐ろしい兵器。戦争に突き進まんとする安倍政権が怖い。格差のない日本を目指してほしい。経済的に豊かになるのはいいが、不平等な豊かさでは困る。

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